七尾城 (石見国)
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七尾城 (島根県) |
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通称 | 益田七尾城、益田城 |
城郭構造 | 連郭式山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 益田兼高 |
築城年 | 鎌倉時代 |
主な改修者 | 益田藤兼 |
主な城主 | 益田氏 |
廃城年 | 1600年 |
遺構 | 曲輪跡、堀切 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯34度40分9.7秒 東経131度52分3.0秒 |
[編集] 概要
七尾城は、中世の益田氏の居城で、益田兼高が築城した。陶晴賢と毛利氏との戦いの中で、当時の領主益田藤兼は陶側につき、毛利勢の攻撃に備えて城を大改修した。 その後、益田氏は毛利氏の軍門に降り、毛利氏の家臣となった。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の合戦後、毛利氏は防長2国へと減封となった時、七尾城主だった益田氏の当主益田元祥は毛利氏に従って長門須佐へと移り、七尾城は廃城となった。 現在、大手門が益田市の医光寺総門として現存する。 平成16年、平時の居館である三宅御土居とともに国指定史跡となった。