丁零
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
丁零(ていれい)とは、紀元前3世紀~紀元5世紀頃、バイカル湖南方のモンゴル高原に住んでいたトルコ系北方遊牧民族。「勅勒」(ちょくろく)とも。時代を下るごとに西方へ移住していき、「高車丁零」、6世紀~8世紀には「鉄勒」(てつろく)と呼ばれた。
目次 |
[編集] 匈奴の支配下
丁零の呼称は中国側の史料に現れ、「テュルク (Turk) 」の音写と思われる。おなじテュルクの音写で「勅勒」という呼称も用いられた。当初、匈奴の支配を受けるが、のちに独立して南下。3世紀には鮮卑の分裂に乗じ勢力を伸張して、一部は中原に入り五胡十六国のひとつ「翟魏」(てきぎ)を建てたが392年には滅亡した。
[編集] 高車丁零
高原に残った丁零諸部族は、5~6世紀の南北朝時代に「高車」(こうしゃ)あるいは「高車丁零」ともいわれ、小部族に分立して柔然の支配を受けていた。高車の名称は高輪の車を使用していたことから付けられたもの。「北史高車伝」などに詳細な記述が見られ、その言語は匈奴に類似していたという。
柔然の統治下では、小部族ごとに集落を作り政治的統一は弱かったが、柔然の弱体化に乗じて5世紀末には有力部族「副伏羅部」の長、阿伏至羅(あふくしら)を頭領としてアルタイ山脈西方へ移動。トルファンのオアシス国家高昌を従属させ、ジュンガリアに都を置いた。阿伏至羅国とも呼ばれ、北部は阿伏至羅が治め「候婁匐勒」(天子の意)と称し、南部はその従弟の窮奇(きゅうき)が治めて「候倍」(太子の意)と称した。生業は牧畜を中心として、牛皮、羊皮をもって北魏への朝貢を行い、東方は柔然、西方はエフタルと対峙した。その後、エフタルとの抗争で弱体化して6世紀には柔然の攻撃を受け、国王は殺された。一度はエフタルに援を請い再興するも、546年には再び柔然に敗れて併合された。
[編集] 鉄勒
隋代の史書に見える「鉄勒」は丁零と同じく「テュルク」の音写で、北方アジア、中央アジアのトルコ系遊牧民族の呼称として使われた。ジュンガリア一体の鉄勒は高車の後裔と見られる。6世紀にはアルタイ山脈西南に突厥が現れ、柔然は滅ぼされる。鉄勒諸部はいったん突厥の支配下にはいるが、有力部族である薛延陀(せつえんだ)は630年、唐と結んで東突厥を滅ぼした。しかし、その後は唐の羈縻(きび)政策に組み込まれ、主要な9部族を指して「九姓鉄勒」と呼ばれた。鉄勒諸部の居住領域はバイカル湖の南からアラル海、カスピ海の北にまで広がっていた。682年には東突厥の復興とともに唐から離反、744年には鉄勒の一部族である回鶻(かいこつ)=ウイグルによって東突厥は滅ぼされる。この頃から史書に鉄勒の称は用いられなくなる。
[編集] 歴代君主
- 副伏羅阿伏至羅
- 跋利延
- 彌俄突
- 伊匐
- 越居
- 比造
- 去賓