ユリア・ドムナ
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ユリア・ドムナ(Julia Domna、170年-217年)はセウェルス朝の開祖であるセプティミウス・セウェルスの妻。カラカラ、ゲタの母親でもある。セウェルス後の皇帝家の陰の実力者として君臨した。
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[編集] 生涯
ユリアの家系はシリア古来のもので、エメサ(現在のホムス)にあった太陽神エル・ガバル(ヘリオガバルス)の神職を代々預かっており、エメサの町も支配する祭祀王の家系だった。父親はエル・ガバルの神官ユリウス・バッシアヌスで、姉にはユリア・マエサ、甥には後にローマ皇帝となるヘラガバルスがいた。
180年代後半にセウェルスと結婚、ガリア・ルグドゥネンシスの総督だったセウェルスはユリア個人の人となりも彼女の家系がどのようなものかも知らず、ただ占星術で彼女が王になる人物と結婚するという事を聞いてこの結婚を決めたと言う。しかし結果としては恵まれた結婚となり、186年にはカラカラを、189年にはゲタを生む。
[編集] 皇帝の妃として
193年にセウェルスはいち早くローマに入り、皇帝として認定された。しかし彼にはまだペスケンニウス・ニゲル、クロディウス・アルビヌスなど敵対する者がおり、セウェルスはこの敵と戦わなくてはならなかった。ローマに留まり夫の帰りを待つのが普通だった当時の女性とは違い、彼女はこの一連の軍事行動を夫とともにした。こうして皇帝である夫の陰での実力者として彼女は絶対的な政治力を持つようになった。
皇帝就任後もセウェルスは外征を行う事が多く、ローマで影響力を振る舞う彼女の存在を元老院には歓迎はしなかった。彼女はさしたる理由もなく不義、国家反逆罪の咎で告発され、皇妃として彼女はこのような政敵と対峙せねばならなかった。しかしセウェルスは妻に対する態度を少しも変える事はなかった。
[編集] 陰の実力者として
211年に夫セウェルスが没すると、ユリアは共同皇帝となった二人の息子−カラカラとゲタ−の調停者としての役割を担うようになる。セウェルスは2人の息子が協力して帝国の統治を担う事を願っていたが、カラカラとゲタは仲が非常に悪く、絶えず何かしら対立していた。そして同年12月にカラカラはゲタを殺害する。
[編集] カラカラ暗殺、そして死
しかし、その後もユリアは息子カラカラを支援、217年にパルティア遠征にカラカラとともに出征する。しかし、この遠征中にカラカラは親衛隊長官のマクリヌスによって暗殺、ユリアも息子の後を追って自死した。
[編集] 関連項目
- セウェルス朝
- セプティミウス・セウェルス:夫
- カラカラ:息子
- プブリウス・セプティミウス・ゲタ:息子