メトン周期
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メトン周期(Metonic cycle)とは、ある月日の月相(月の欠け方)が一致する周期の一つ。19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のこと。
紀元前433年、アテナイの数学者メトンが発見したのでこの名がある。中国では、19年を1章と呼ぶことから章法(しょうほう)と呼ばれた(独自に発見したとも、東漸したとも言われる)。
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[編集] 特徴
この周期は、太陰太陽暦で閏月を入れる回数を求めるのに用いられた。19太陽年は 365.242194日×19 = 6939.601686日、235朔望月は 29.530589日×235=6939.688415日で、ほぼ等しくなっている。19年は 12か月×19 = 228か月であるので、メトン周期に従うと、19年間に7回の閏月を入れれば太陽年とのずれが解消されることになる。ただし、19太陽年と235朔望月とは完全に一致しているのではなく、約0.09日ずれている。この微小な差が蓄積され、200年もたつと1日近くずれることになる。このため時々改暦を行い、ずれを矯正する必要があった。
メトンは1太陽年を365日ちょうどとし、19太陽年=235朔望月=6940日として計算しているので、のちにカリポスやヒッパルコスによって修正された。
[編集] メトン周期の修正
[編集] カリポス周期
キュジコスの天文学者カリポス(紀元前370年? - 紀元前300年?)は、メトン周期を修正して、1太陽年を365.25日として計算した。つまり、19年すると6939.75日となり、これを4倍した76年は27759日となり、メトン周期より1日減ることになる。235月を4倍した940月を27759日とした(1朔望月は29.53086日となる)。この76太陽年=940朔望月=27759日のカリポス周期(Callipic cycle)は紀元前330年に採用された。中国では四分暦に採用されている。
[編集] ヒッパルコス周期
ニカイアのヒッパルコス(紀元前190年? - 紀元前120年?)はカリポス周期をさらに4倍して1日引き、304年=3760月=111035日とした(ヒッパルコス周期 Hipparchic cycle)。これにより1太陽年はおよそ365.24671日、1朔望月はおよそ29.530585日とされた。
[編集] 参考
1太陽年は平均約365.242194日、1朔望月は平均約29.530589日である。1太陽年を1朔望月で割ると、12.36827……となるが、無限小数のままでは暦に使うことができない。そこで、この値に少しでも近い分数を求めると、25/2、37/3、99/8、136/11、235/19、4131/334、4366/353、…という値が得られる。この中の235/19(12.36842…)がメトン周期に相当する。
[編集] 破章法
中国では、章法と呼ばれていたメトン周期に従って太陽太陰暦が編纂され、19年7閏によって構成される周期を章と呼び、その切替の年を章首と呼んだ。そして、章を開始する基準日として、章首の年における冬至を11月1日と定めて、19年7閏を経て再び同じ日が巡ってくるように暦が編纂されていた。この冬至は特に朔旦冬至と呼ばれ、定期的な朔旦冬至の到来は暦の安定、ひいてはその暦を作成・頒布する王朝の安定の象徴として、宮廷においては盛大な祝賀行事が行われた。
ところが、五胡十六国時代、北涼の玄始暦(412年施行)から、メトン周期によらない破章法が行われている。玄始暦では600太陽年=7421朔望月(12.36833…)、南朝の大明暦(510年施行)では391太陽年=4836朔望月(12.3682864…)としている。
高度な計算に基づく破章法によってより暦の精度が増したものの、替わりに章首の冬至が必ず朔旦冬至とはならなくなり、冬至の日がずれたり逆に章首以外の年に朔旦冬至が発生する事も発生した。中国の朔旦冬至の儀式と破章法暦法の両方を継承した日本では、こうした事態を不吉として捉えて、月の大小や閏月の順序を入れ替えることで強引に章首の朔旦冬至を実現させたりしたという(「改暦」)。