ヘンリー・ヒル
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ヘンリー・ヒル(Henry Hill、1943年6月11日 - )はアメリカのギャングスター。大統領よりワイズガイに憧れた男。11歳にしてタクシーの配車センターでマフィアの使い走りをはじめ、その後あらゆる犯罪に手を染めた。
母親のカルメラ・コスタ・ヒルはシチリア出身、父親のヘンリー・ヒル・シニアは12歳のときにアイルランドからアメリカへ移民してきて、その時すでに父親が亡くなっていたので彼一人で母と3人の弟の面倒を見てきた。彼に言わせればアメリカの子供は甘えていた。ヘンリー・ヒルには4人の姉、2人の弟がいた。
12歳でポール・ヴァリオや彼の兄弟の使い走りになる。それからシチリア人の血が半分入っているから彼に気に入られる。この頃すでに自分で使えきれないほど金を稼いでいた。13歳の時にはナンバー賭博券や爆薬を売ったりしていた。ヴィリオ一家がやっている賭博業も手伝うようになる。この時には学校にもほとんど行っていなかった。
16歳のときに盗品のクレジットカードを使ったことで初めて逮捕される。警察にはカードのことや仲間のことは一切言わなかった。そのため裁判が終わったときヴィリオ一家はヒルを祝福した。この事件では6ヶ月の執行猶予ですんだ。その後も偽クレジットカードを使い買い物をしたりした。当時はコンピュータなどなかったから偽造カードとはすぐにばれず、捕まる心配などしなかった。他にも煙草の密売もやっていた。販売店より安く売ったので飛ぶように売れたという。盗難車の販売もやった。
22歳のときにカレンと結婚する。お互いの両親が反対したが2人で入籍した。このときカレンはヒルがギャングとは知らず仕事も何をしているか知らなかったという。
1966年23歳の頃から強奪を始める。24歳の時にはノミ屋も始める。26歳の時には相当な稼ぎがあり、ブリオーニ(Brioni)のスーツを15着、プラチナや金の時計、ネックレスなど好きに身につけ、愛人には高価なプレゼントを贈っていた。
1972年に暴力事件を起こし、恐喝罪で10年の刑を受ける。裁判の後、上訴したりして刑務所に入るまで2年近くかかりその間にどの刑務所が楽か調べていた。ペンシルベニア州にあるルイスバーク連邦刑務所に入る。そこには脱税で捕まっていたボスのポーリーもいた。ギャングは看守を買収していたので他の囚人とは別で好きに生活していた。ヒルはこの刑務所で麻薬の売人もやっていた。当時この刑務所ではLSDやマリファナが流行っていた。ポーリーは薬に反対していたので、彼には薬取引などやってないと嘘をついていた。面会に来た妻に持ってこさせたりしていた。1978年7月12日に出所する。出所してから精力的に麻薬取引を始め、銃の密売もやる。盗難宝石の売買、スポーツの八百長試合なども、
1978年にジミー・バークたちとルフトハンザ強奪事件(Lufthansa heist)の計画を立て成功させる。
刑務所から出てから自分の家の庭仕事を手伝っている少年に麻薬の運び屋をやらせるが、後に彼が警察に捕まり情報を提供してしまう。電話も盗聴されており、情報が警察に渡っていた。彼は電話で取引の話をするとき、麻薬の代わりに宝石の名前を使っていたが、捜査員にはすぐに解読された。
麻薬で捕まったことっで、麻薬取引を禁止していたボスのポーリーに見捨てられ彼の一家から破門された。ポーリーはヒル(当時拘置所にいた)の妻のカレンに餞別として3000ドルを渡した。その時ポーリーは泣いていたという。
拘置所にいる間、FBIはヒルにプレッシャーを与え続けた。ルフトハンザ強奪事件に関わった者の多くが殺され、その死体写真を見せここを出たら自分の命もないぞとか、実刑を受ければ25~終身刑の可能性があると。さらにこの頃には仲間から、一家を破門されたが情報を知りすぎている危険人物と思われ、命を狙われるようになっていた。その後、妻とその母に1万ドルの保釈金を用意してもらい刑務所を出た。しかし、すぐに今度はルフトハンザ事件で捕まった。今度は一生刑務所暮らしか、FBIと取引するかどっちかしかなかった。
1980年5月27日にアメリカ合衆国司法省組織犯罪撲滅班と取引し、証人保護制度に入った。
裁判でこれまで犯した犯罪について証言した。そのためかつての仕事仲間は有罪を受けた。
その後、ヒルは生まれた土地を離れ、アメリカの某所に住んでいる。
ヘンリー・ヒルの波乱万丈の人生は小説や映画にもなった。