ブロンベルク罷免事件
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ブロンベルク罷免事件( - ひめんじけん)は、1938年に冒険的な外交政策に反対する陸軍の上層部を一掃するためにナチスがでっち上げた謀略事件を指す。
国防三軍の最高司令官である国防大臣のヴェルナー・フォン・ブロンベルク陸軍元帥は「ゴムのライオン=見掛け倒し」と揶揄されるほど、ナチスに理解があったが、1937年、アドルフ・ヒトラーが、国防三軍上層部との秘密会談で戦争も辞せずの覚悟でドイツ民族の生存圏を確保すると言明したことに一転して猛反発した。ここにナチスの謀略の的になる事となった。
1938年、ブロンベルクは秘書として仕えていた平民出身のタイピストのエルナーと再婚した。プロイセン王国時代から、ドイツ将校の結婚相手は軍人か貴族の家系というのが伝統であるが、自分も平民出身であるヒトラーは大いに祝福した。しかし、ヒトラーの知らない間に、水面下で陰謀が進んでいた。
再婚の直後、エルナー夫人を中傷する怪文章が出回り始め、エルナー夫人らしき女性のいかがわしい写真が、ベルリンの警察に届けられた。国防省はこのスキャンダルの種を内々に処理するつもりだったが、写真の女性の信憑性を確かめるため、ヴィルヘルム・カイテルが結婚式に出席して夫人と面識のあるヘルマン・ゲーリングに見せたことから、事が公になってしまった。ゲーリングは国防軍最高司令官の座を狙う野心家であり、ついでに国防軍のNo.2である陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将の同性愛者容疑を再燃させた。
多少融通は利かないものの十分に有能な将軍として信頼していたヒトラーはショックを受けたが、二人を罷免し、後継の国防大臣を任命せずに、自分に都合のいい国防軍最高司令部を新しく設け、自身が国防三軍の最高司令官に就任した。
一方、罷免されたフリッチュには軍法会議が待っていたが、元がでっちあげ事件であり、無罪放免された。しかし、もはやフリッチュはヒトラーにとっては無用の存在であり、復職することはなかった。ドイツ軍人が時に生命よりも大事にする「名誉」を失ったフリッチュは、あくまでも戦場で死ぬことを求め上級大将から一連隊長として降格を自ら求めた。そしてポーランド戦で第12砲兵連隊の名誉連隊長として従軍、ワルシャワ近郊で無謀な突撃を敢行し、ほとんど自殺のような形で戦死した。