パキスタン・モスク立てこもり事件
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パキスタン・モスク立てこもり事件(ぱきすたん・もすくたてこもりじけん)は、2007年7月3日にパキスタンの首都イスラマバードでイスラム教の神学生らが治安部隊と衝突し、その後モスクに人質を取って立てこもった事件。イスラーム過激派アルカーイダとの関連が指摘されている。
[編集] 事件の経過
2007年7月3日、パキスタンの首都イスラマバード中心部にあるイスラム教の礼拝所モスク、ラール・マスジド(「赤いモスク」の意)周辺の政府関連施設を、このモスクに併設されているイスラム教神学校に通う学生ら150人が攻撃をくわえ、施設を守っていた治安部隊の銃を奪い隊員の一部を人質にして衝突が発生。治安部隊は催涙ガスで応戦した。この時点でパキスタン内務省の公式発表で治安部隊1人、学生4人、テレビカメラマン1人および通行人3人の死亡が確認された。また他に148人が病院に運ばれたが、大半は催涙ガスによるものとされている。
学生らは政府に対し、かつて隣国アフガニスタンの大半を支持していたターリバーンが主張するような厳格な社会的価値を要求、ここ数カ月にわたり当局との緊張が高まっていた。パキスタン政府は国営放送を通じ、あくまで対話による解決を目指すと伝えるが、学生らはモスクに立てこもる。
学生らが蜂起した背景にはモスクの最高指導者マウラーナー・アブドゥル・アズィーズ師の影響が大きいとされている。彼は当時のムシャラフ政権が進めようとしていた教育改革(マドラサへの近代教育の導入)に反対する急先鋒(せんぽう)であった。当時のパルヴェーズ・ムシャラフ大統領を、「アフガニスタンやイラクで罪のないイスラム教徒を殺害している米英の手先」として批判してきた。アズィーズ師はターリバーンとの深いつながりが指摘されており、パキスタン当局からは、米国大使館へのテロ攻撃を計画したことや、国際テロ組織アルカーイダのメンバーを匿ったことなど15の容疑がかけられていた。今年になって学生らが、イスラムの教えに背いたとして売春婦らの拉致事件を起こすなど、徐々にその行動をエスカレートさせていた。
7月4日、神学生らを影で操っているとされていたモスク最高指導者アズィーズ師は、立てこもっていたモスクから、全身が隠れる女性の外出着(ブルカ)で顔を隠しながら逃亡を図ったが、その途中でを治安当局によって逮捕された。当局はこの日、モスク周辺に外出禁止令を出して包囲網を強化し、指導部や神学生らに投降するよう求めていた。同日夕方までに少なくとも1200人がこれに応じた。周辺は数キロの範囲で外出禁止令が敷かれ、ワライチ副首相は「銃弾には銃弾で応じる」と強硬姿勢で臨む構えを示した。
7月7日、政府側は、同じくラール・マスジドの付属校で、モスクの北西約3キロに位置する男子マドラサ(イスラム神学校)、ジャーミヤー・ファリーディヤーを急襲して制圧し、立てこもっていた学生数十人を逮捕した。こうして政府側は徐々に包囲網を狭めるが、アズィーズの弟、アブドゥル・ガーズィー師はあくまで徹底抗戦を主張。ムシャラフ大統領は「降伏か死か」の選択を迫る事実上の最後通告を突きつける。政府軍は拡声器や電話でモスク側に対して投降を呼びかけるが、遂に降伏はせず。
7月10日ムシャラフ大統領は事態の打開に向けて最終段階に入った。これまでの政府側とモスク側の衝突で少なくとも21人の死者が出ている。午前4時(軍のスポークスマン声明)、ついにSSGを先頭に政府軍がモスク敷地内に突入。突入後、20人ほどがモスクから脱出したと見られている。4時間後の午前8時にモスクは制圧され、こうして事件は一応の解決を見たが事態は最悪の結末を迎えることとなった。
[編集] 事件の顛末
この事件により神学生側が75人、治安部隊側に10名の死者が出たと事件後に発表された。指導者のガーズィーも内務省報道官は「ガーズィー師は神学生らによって囲まれて投降せず、銃撃戦によって殺害された」と発表した。また、同師殺害後も、生き残った学生の一部は抵抗を続けたという。
この事件は「対テロ戦争」の一環としてアメリカに協力していたムシャラフ政権に対する宗教保守派からの信頼を根底から揺るがすものになると見られている。