バルラス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バルラス(Barlas)は、中央ユーラシアで活動した部族集団。
チンギス・ハーン以前はモンゴル部族に属する1氏族で、『元朝秘史』によればその始祖カチュリはモンゴル部族の最初のハンとなったカブル・ハンの兄弟で、ボルジギン氏に繋がる有力家系であった。カチュリの子孫はカブル・ハンの子孫キヤト氏族に従い、キヤト氏のチンギス・ハーンに仕えたカラチャル・ノヤンはモンゴル帝国の千人隊長のひとりとなり、チンギスの次男チャガタイのウルス(所領)に配属された。13世紀中頃にチャガタイ・ウルスがイリ川の渓谷に移るとこれに従い、さらに14世紀にチャガタイ・ハン国を形成して中央アジアの広い地域を支配するようになるとバルラス部も散らばった。
14世紀中頃、西チャガタイ・ハン国のシャフリサブズにいたバルラス部の小貴族で、カラチャル・ノヤンの5代目の子孫にあたるティムールは、チャガタイ・ハン国再編の動きに乗って頭角をあらわし、1360年にバルラス部のアミール(当主)となった。ティムールは1370年までに西トルキスタンの各地で割拠する諸部族を制圧して西チャガタイ・ハン国領を統一し、ティムール朝を建設する。ティムール朝は出自がバルラス部族であるから、チンギス・ハーンの男系子孫でなければ即位することのできないハンの地位に就くことができず、チンギス・ハーンの子孫を保護して名目上のハンに立て、自らはチンギス家の娘と結婚して王家の娘婿(アミール・キュレゲン)の資格をもとに支配の正統化を行った。
ティムール朝の治下では、この体制を歴史的に裏付けるためにある種の伝説もつくられた。年代記に記されたところによると、モンゴルのトゥメネイ・ハーン(『元朝秘史』のトンビナイ・セチェン)には、カチュリとカブルの二人の息子がおり、父のトゥメネイは弟のカブルとその子孫がハン位を継承し、兄のカチュリとその子孫はハンのもとで行政と軍事を司るように定め、二人に誓約を行わせたというものである。このようにして、カブルの子孫であるチンギス家はハンとして即位する権利をもつけれども、カブルの子孫であるティムール家が先祖の誓約に従って行政と軍事の全権を握るというものである。こうして、バルラス部のティムール家は、チンギス家に次ぐ高貴な家柄であることが主張された。
16世紀初頭にティムール朝が滅ぼされた後も、ティムール家の王子バーブルはインドに移ってムガル帝国を立てたので、ムガル帝国として続いた。ムガル帝国でもバルラス部はチンギス家と並ぶ高貴な家系であるという主張は繰り返され、王家の正統性が主張されている。