スチュードベーカー
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スチュードベーカー (Studebaker) はアメリカにかつて存在した自動車メーカー及びそのブランドである。本社はインディアナ州サウスベンドにあった。1928年には ピアスアロー、1954年には パッカードと、2つの名門高級車メーカーと合併したこと、並びに著名な工業デザイナー・ レイモンド・ローウィのデザインした乗用車を長年にわたって製造したことで知られる。ビッグスリーとの競争に勝つことが出来ず、1964年にはサウスベンドの製造施設を閉鎖しカナダ・オンタリオ州ハミルトンに移転したが、1966年モデルを最後に自動車業界から姿を消した。企業としてはしばらく存続したが、1979年、企業合併により社名も消滅した。
[編集] 歴史
スチュードベーカー兄弟が1852年に創業した同社は当初は幌馬車などを製造していたが、1897年に最初の 電気自動車、1904年にはガソリン車を開発、当初は他メーカーへのOEM供給を主にしていたが、1913年から「スチュードベーカー」ブランドでの自動車販売を開始した。特に1929-32年の「プレジデント」は傑作として知られる。また39年には小型経済車の「チャンピオン」をデビューさせた。第二次世界大戦中は軍用トラックや輸送車の製造に専念したが、戦後はすぐに乗用車生産に復帰、1947年にはいち早く レイモンド・ローウィのデザインになるフルワイズボディの新型モデルを発表、「どちらに向かって走っているのかわからない」(Coming? or going?)などとも評されたが、圧倒的な人気を集め、ビッグスリーの生産復興の遅れによる供給不足の手伝い、大きく業績を伸ばした。次のフルモデルチェンジに当たる1953年モデルもローウィのデザインで、2年後にデビューしたシトロエン・DSを髣髴とさせる進歩的なスタイルを誇っていた。
しかし、全米自動車労組に加入する必要が無かったと言われるほどの業界一高い人件費水準、ビッグスリーの新車開発と値下げ競争によってスチュードベーカーは次第に追い込まれて行き、デザイン的にもローウイの関与が無くなった1955年モデル以降はフルモデルチェンジの余裕も無くなり、ジリ貧の一途を辿った。1954年には同じく苦境に立たされていたパッカードと合併、スチュードベーカー・パッカード社に改組されるが業績は回復せず、両社のディーラーはメルセデス・ベンツや DKW も併売して辛うじて食いつないでいく有様だった。(日本のパッカード代理店であった 三和自動車がポルシェの代理店に転進したのもこの頃であった)
遂に1958年にパッカードブランドは消滅、翌59年、ビッグスリーに一年先んじてコンパクトカー「ラーク」をデビューさせ、53年モデルをやはり著名な工業デザイナー、ブルックス・スティーブンスがリデザインしたスペシャリティカー「ホーク」との二本立てで、ニッチ市場に生き残りを賭けることになった。1963年には起死回生を目指して再びローウィのデザインによるFRPボディの4座スポーツカー・アヴァンティを登場させたが、 時既に遅く、翌64年には拠点を比較的好調なカナダに移すことになり、アヴァンティやホークは姿を消した。カナダ工場は1シフト制で日産48-96台という小規模な施設であった。(アヴァンティはサウスベンドの遊休施設を利用して、66年からレオ・ニューマンとネート・アルトマンにより「アヴァンティII」として復活する)
1966年3月16日に最後のスチュードベーカーとしてラインオフしたのはターコイズ色の1966年ラーク・クルーザーであった。お互いが家族的に親しみあっていた700人の従業員にとっても、市内第四番目の大工場を失うことになったハミルトン市にとっても、同社の乗用車生産撤退は悲しい知らせであった。