クセルクセス1世
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クセルクセス1世(フシャヤールシャ1世、英語・ラテン語:Ahasuerus I、 ギリシャ語:Xerxēs I; AhasuerosI 、古代ペルシア語:Xšayārša(n) ペルシア語:خشایارشاه khšāyāršāh、ヘブライ語:אֲחַשְׁוֵרוֹשׁ Ăḫašwērôš)は、アケメネス朝ペルシアの王(在位:紀元前486 - 465年)。アハシュエロス、アハスエロスとも。
ダレイオス1世とアトッサの息子。
[編集] ペルシア戦争期
- 紀元前480年、海・陸の大軍を整えギリシア遠征を企てる。
- アルテミシオン(Artemision)の戦いでギリシア海軍と戦う。この戦いはヘロドトスの「歴史」によればギリシア海軍がやや優勢であったが、後述のテルモピュライ(Thermopylai)の戦いでギリシア連合軍の陸軍が敗北したためギリシア海軍が自主的にサラミスへ撤退した。
- 8月、テルモピュライ(Thermopylai)の戦い でスパルタ王レオニダスを敗死させる。
- 9月、アッティカ地方を遠征したが、サラミスの海戦(Salamis)で敗れ、帰国。
ギリシア遠征で大打撃を受けたクセルクセスは帰国した。その後、万国の門で有名なクセルクセス門などの大規模な建築事業を数多く行ったが、これにより国の財政がさらに圧迫し、次第に国力が衰える中で最後は側近の権力抗争に巻き込まれる形で暗殺された。 事実上クセルクセスのギリシア遠征は失敗に終わり、その後もペルシアは大規模なギリシア遠征を行うことも無かったが、ペルシア戦争自体は息子のアルタクセルクセス1世がカリアスの平和を結ぶまで継続している。
王はまた「性剛情」とされ、アフラマズダ神の崇拝を強行しようとしたといわれる。 またアフリカを周航させたともいわれる。
クセルクセス1世の在位期間に関しては、紀元前496年-紀元前475年ごろではないかとの説もある。これはペルセポリスから出土した銘文に父ダレイオス1世との共同統治期間が示唆されているためである。
旧約聖書のエステル記に登場するペルシアの王アハシュエロスは、クセルクセス1世をさしていると伝統的に考えられている。エステル記では、アハシュエロスは后妃ワシテ(ワシュティ)が反抗的であるためこれを廃し、その代わりとしてユダヤ人の乙女エステルを后妃とする。大臣がユダヤ人を絶滅しようとする企みを抱いていることを知ったエステルは叔父モルデカイと謀り、かえって大臣を死刑に追い込む。モルデカイは王の宰相となる。主要登場人物であるエステルとモルデカイに史実性はないが、同型の伝説はペルシアにも存在する。
[編集] 関連項目
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