オヤケアカハチの乱
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オヤケアカハチの乱は、1500年に琉球王国石垣島大浜(現在の石垣市大浜)の豪族・オヤケアカハチが蜂起した事件で、尚真王が派遣した征討軍3,000人の軍勢によって鎮圧、首謀者のオヤケアカハチは討ち取られた。
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[編集] 乱の原因
発端としては、石垣島大浜村を支配するオヤケアカハチ・ホンガワラ(アカハチの共謀者としてホンガワラという人物がいたという説、またホンガワラはオヤケアカハチの別名であるとする説がある。伊波普猷は「ホン」は「大」、「カワラ」は「頭」の意味であると説き、大頭領を意味するオヤケアカハチの異名であったとする)が、琉球王府への朝貢を3年間にわたって無視していたこと。また、勢力を競合する豪族である長田大主を西表島の古見に逃亡せしめ、長田大主が宮古島の仲宗根豊見親にオヤケアカハチの王府への翻意を伝えたことにあるとされる。当時、古見には宮古の出先機関が設置され、八重山から王府への朝貢物を一手に管理していた。古見は宮古の八重山支配の重要拠点であり、西表島は古見島とも呼ばれていた。
オヤケアカハチが蜂起した理由は、様々な説が挙げられている。琉球王国側の見解では、オヤケアカハチの粗暴な性格と貢納を拒否した反逆行為が原因としている。また、一説では農民に信仰されていた八重山固有の神、イリキヤアマリ(イリキヤ・アモリ)神の信仰を王府に禁止されたためとも言われる。 しかし総覧して、当時オヤケアカハチは、八重山諸島の覇権を巡って宮古諸島の豪族・仲宗根豊見親と対立しており、琉球王国への反逆というよりは、八重山統一を賭けた一大決戦だったというのが真相に近いだろう。 史実として、この戦いの結果、八重山は一時的に仲宗根豊見親の勢力下に収められることとなり、王府もそれを容認している。 なお、イリキヤアマリ神信仰の禁止令はこの約百年後に発令されており、直接の要因ではないという説もある。
[編集] 王府側の対応
オヤケアカハチに対する王府の対応は、各種史料からある程度は把握されている。 仲宗根豊見親を通じてオヤケアカハチの翻意を知った王府は、オヤケアカハチの討伐を決定する。 伝承では、出征にあたり王国最高位のノロである聞得大君が神託を受け、久米島のノロである君南風(チンベー/きみはえ)を派遣軍に随伴するよう命じたとされる。その理由は、琉球の神話において石垣島の最高神であるオモト神(石垣島最高峰のオモト岳の神とされる)と、久米島西嶽の神が姉妹神であり、君南風はその西嶽の神の直系の末裔で、オモト神の妹神であったためとだという。しかしそれは神秘主義的な事由であって、久米島のノロが用いられた真の理由は定かではない。ただし、君南風ノロが遠征軍に随行したことは史実である。 王府軍の船団は那覇を出航し、まず久米島に寄航、君南風ら数名のノロを収容すると、一路宮古島へ向かい、仲宗根豊見親の軍勢や宮古島のノロたちと合流して兵力3000、46隻の船団となり、オヤケアカハチのいる石垣島に向かった。
[編集] 戦闘の伝説
たびたび演劇の題材となる両軍の戦闘の実態を客観的に記録した資料はなく、伝承、物語として伝わるが、真相を伺いうる示唆も得ることができる。それによれば、戦闘はまず互いの女性神官が呪詛を相手に放つという古代の戦いに習うものであった。オヤケアカハチ軍は浜辺に神官を並べ呪詛を放ち、これに対して船上より君南風ノロが呪詛を放って応じたという。 当初、王府軍は上陸しても駆逐され、攻めあぐねていたが、君南風ノロが姉神であるオモト神から神託を受け、夜になって材木と松明で大軍を偽装し、それにオヤケアカハチ軍(300人とも伝わる)が陽動された隙に、二箇所から王府軍が上陸を果たし、沿岸の部隊との三方からの挟撃により勝利したという。 以上には物語的脚色がされていると考えられるが、王府軍が3000の軍勢であったこと、久米島のノロである君南風が随行したこと、呪詛合戦が行われたこと、君南風ノロの作戦によって王府軍が勝利したことは事実であると考えられる。
[編集] 事後・逸話
オヤケアカハチが討たれた結果、八重山は王府に恭順する仲宗根豊見親とアカハチと対立していた石垣の豪族、長田大主の勢力圏に収められることとなった。敗れはしたものの、王国の侵攻から現地の民俗を守ろうとしたオヤケアカハチは、地元の英雄として現在に伝わっているほか、イリキヤアマリ神を伝える御嶽が石垣島に残っている。なお、小浜島には、戦いに敗れたオヤケアカハチが逃げ込んだという伝説のある、オヤケアカハチの森がある。
一方、戦功をあげた君南風ノロは、王府より大阿母(一地方の最高位のノロ)に匹敵する格づけで、久米島ノロの最高位の地位を与えられた。加えて勾玉を授けられ、「おもろさうし」にも謡われる英雄となった。この戦争から500年以上たった現在も、君南風ノロは久米島最高位のノロとして久米島の祭祀を司っている。またこの史実から、君南風は勝利の軍神とされ、久米島キャンプをしたプロ野球チームが君南風神殿に参拝することが知られている。
また、石垣からの王府軍の帰路の安全を祈り、安全な航海のための神託を与えた石垣の神女マイツバ(長田大主の姉)は、その後王府より褒賞として金のかんざしと現地のノロを統括する八重山初の大阿母職(高級神女職)に任命されるが、大阿母職を固辞し、代わりにイラビンガミ神職(イラビンガミ神に仕える神女)を拝命した。彼女が王府軍の帰路の無事を願った場所は美崎御嶽となり、石垣島の重要な御嶽となった。また、彼女の墓地にはマイツバ御嶽が作られ、ともに現在も信仰を集めている。
この戦いで石垣島に遠征した将軍の大里親方は、竹富島の西塘(にしとう)なる人物を見出し、首里へ連れ帰った。西塘は首里で学問を修めて土木建築家となり、1519年に国王が首里城を出るたびに御願(うぐぁん:祈祷)を行う園比屋武御嶽の礼拝所となる石門を建築したことで知られる。その後、八重山を統治する身分として竹富島に戻り、その後石垣島に移って八重山地方の蔵元(琉球王国の地方行政官庁)をおいた。竹富島には園比屋武御嶽の神を勧請して国仲御嶽(フイナーオン)を造成した。この御嶽は八重山で唯一、王府の神につながる御嶽であり、竹富島の村御嶽として国の守り神とされている。彼の死後、竹富島の墓地には西塘御嶽が作られ、その功績を讃えて現在も信仰されている。