ウラジーミル・イワノフ
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ウラジーミル・イワノフ(Владимир Иванов;1893年 - 1938年3月15日)は、ソ連共産党の活動家。
トゥーラ市出身。1909年~1910年、中学校のストライキに参加。1912年~1917年、モスクワ大学医学部の学生だったが、中退。1912年から学生社会民主運動の活動家となり、1915年から全連邦共産党(ボリシェヴィキ党)員。1916年、学生サークルへの参加により逮捕。
1917年2月~7月、党モスクワ市ハモヴニチェスキー地区委員会書記、地区議会議員。1917年7月~1918年8月、党モスクワ市バスマンヌイ地区委員会書記。1917年からモスソビエト幹部会議員。1918年から党モスクワ・コムソモール員。1917年10月、バスマンヌイ地区軍事革命会議議員、赤衛隊本部員。
1918年8月からカムイシン郡・沿前線チェーカー議長、党郡委員会委員。同年10月からカムイシン郡執行委員会議長、第1カムイシン師団政治職員。1919年初めから党モスクワ・コムソモール局員、モスクワ執行委員会委員。1919年春から1920年末までモスクワ市バスマンヌイ地区委員会責任書記。1920年12月~1921年7月、党ヤロスラヴ県委員会責任書記。
1921年~1924年、モスクワ市委員会組織教育課副主任、組織課主任。1924年10月からウズベク・ソビエト社会主義共和国党中央委員会組織局議長。1925年2月~1927年、ウズベキスタン共産党中央委員会第一書記。1927年から北カフカーズ地方委員会書記。1931年~1936年、党北部地方委員会第一書記。1936年~1937年、ソ連林業人民委員。
1937年10月31日、逮捕。1938年3月13日、「右派反革命スパイ・テロ組織」の参加者として死刑判決を言い渡され、3月15日、銃殺。
1959年、名誉回復。
[編集] パーソナル
1925年~1934年、ソ連共産党中央委員会委員候補、1934年~1938年1月、委員。ソ連中央執行委員会会員。
父は社会民主主義者だったが、入党しなかった。弟と2人の妹がいたが、何れも全連邦共産党(ボリシェヴィキ党)員だった。
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