高昌
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高昌(こうしょう、ウイグル語Qara-hoja、khocho)は、中国新疆ウイグル自治区内にある昔の都市名。東西交通の要所だった。その遺跡が現在のトゥルファンの南東30kmにある。元、明代にはウィグル語「Qara-hoja」の音訳から哈拉和卓、火州、霍州などとして記録されている。
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[編集] 歴史
前漢の宣帝の時に派遣された、携家がここに軍を屯田させ、耕作と守備を行った。元帝の時に「地勢高敞,人庶昌盛」と言われた高昌壁あるいは高昌塁と呼ばれた軍事基地が作られた。ここの長は「戊己校尉」と呼ばれ、高昌を管理した。後漢、魏、西晋の時代にも同様の制度が踏襲されている。ただし一時期涼州敦煌郡に属していたこともある。
西晋から五胡十六国時代にかけて、この地の社会経済は発展した。
327年、五胡十六国時代の前涼支配下で、戊己校尉である趙貞が謀反を起こしたため、張駿がこれを鎮圧し、その機会に高昌郡が設置され、いくつかの県に分けられた。その後、前秦、後涼、西涼、北涼の支配を経る。
北涼の時代、北涼の王族沮渠氏が支配していたが、460年、柔然により滅ぼされ、闞伯周が高昌王国を建国した(闞氏高昌)。闞伯周の死後、子の闞義成が王位を継いだが、兄の闞首帰が弟を弑して王位を奪った。さらに闞首帰も高車王の阿伏に羅所で殺され、その後は張孟明(張氏高昌)、馬儒(馬氏高昌)が相次いで王位に就くが、いずれも国人に弑された。
高昌の国人は馬儒の長史であった麴嘉を支持し、麴氏高昌が建てられた。麴氏高昌は比較的長期にわたって政権を保った。エフタルが焉耆国を攻撃した際、麴嘉が介入して次子を焉耆国王として送り込み、最大版図をきずいた。隋の開皇年間、突厥の攻撃を受けた。609年には隋に朝貢して、隋の高句麗遠征の際には兵を出している。唐代の626年、11代目高昌王麴文泰が唐を訪れている。
その後、麴文泰が西突厥と同盟したのを機会に、唐の太宗は侯君集、薛万均らを派遣して、640年には高昌国は滅ぼされ、高昌県が置かれた。
756年に起こった安史の乱の後、唐の支配力が低下し、840年には漠北(タクラマカン砂漠北部)の天山ウイグル王国の支配下となる。宋の建隆年間、高昌のウイグルが朝貢している。明の永楽年間には中国側から火州と呼ばれ、1409年、1413年にも朝貢している。1414年には明の陳誠がこの地に派遣されている。明の英宗年間に吐魯番に併合された。
[編集] 歴代の高昌君主
(異説もある)
- 闞氏高昌
- 張氏高昌
- 馬氏高昌
- 麴氏高昌
本名 | 出自 | 統治時間 | 高昌の年号 |
---|---|---|---|
麴嘉 | 王莽時期に移り住んだ漢人の後裔 | 501年or502年—525年頃在位 | 承平 501年or502年—509年or510年 義熙 510年or511年—525年頃 |
麴光 | 麴嘉の子 | 525年頃—530年頃 | 甘露 525年頃—530年頃 |
麴堅 | 麴嘉の子、麴光の弟 | 531年—548年 | 章和 531年—548年 |
麴玄喜 | 麴堅の子 | 549年—550年 | 永平 549年—550年 |
麴 (名不明1) | 麴玄喜の子 | 551年—554年 | 和平 551年—554年 |
麴寳茂 | 麴 (名不明1)の子 | 555年—560年 | 建昌 555年—560年 |
麴乾固 | 麴寳茂の子 | 561年—601年 | 延昌 561年—601年 |
麴伯雅 | 麴乾固の子 | 602年—613年 | 延和 602年—613年 |
麴 (名不明2) | 出身不詳,政変により登位 | 614年—619年 | 義和 614年—619年 |
麴伯雅 | 復位 | 620年—623年 | 重光 620年—623年 |
麴文泰 | 麴伯雅の子 | 624年—640年 | 延寿 624年—640年 |
麴智盛 | 麴文泰の子 | 640年 | 独自年号無し |
[編集] 風土人文
高昌住民は主として漢族である。漢や魏の屯田兵、中国内地の戦乱からの避難民の後裔である。少数民族として、昭武九姓や西方からの移民が住む。そのため、高昌国の官制、兵制、賦役制、士族制は漢や晋の制度を踏襲している。ただし道具類には特色が見られる。漢民族の伝統文化が高昌にも根付いている。自然崇拝や仏教を信仰している。十六国の時代にはゾロアスター教も流行したが、仏教が最も重要な宗教だった。道教も一時的に影響を与えている。
高昌の気候は温暖であり、養蚕、麦作がたびたび行われた。赤塩、白塩、ブドウ、凍酒、ハミウリ、白麺、畳布(棉布)、糸等も産する。
天山南北孔道沿いにあり、シルクロード北路の要所であった。政治が安定し、物産が豊かで、文化が発達していたため、東西の使節や商人、僧侶が頻繁に往来した。しかし、15世紀初頭には寂びれた。
[編集] 地図上の座標
北緯42度51分1.33秒東経89度31分8.79秒(世界測地系)
[編集] 参考文献
- 《新唐書・高昌伝》
- 《咸賓録》》 (明)羅日褧選 余思黎校注 中華書局 ISBN 7-101-02058-5/K
- 陳誠著《西域番国志》