韓王成
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韓王 成(かんおう せい、生年不詳 - 紀元前205年?)は、秦末から前漢初期にかけて人である。または楚漢戦争期の韓王。 姓は姫で氏が韓。諱が成である。
戦国時代末期に韓王の公子として生まれ、若くして横陽君(おうようくん)に封じられた。しかし紀元前230年に韓が滅亡し、その地位を失い庶民となった。
秦末の動乱期の紀元前209年頃に亡韓の遺臣であった張良が項梁に進言し、野に下っていた成を韓王に擁立した。しかし韓王成を擁立した張良が劉邦に接近している事を秦を滅した項羽に不快とされ、また劉邦を警戒した范増も韓王を監禁すべきであると進言したため、成は監禁され韓に戻る事はなかったという。
紀元前206年の終わり頃に僻地の漢中王に封じられた劉邦が項羽を討つべく韓信を大元帥として東進した。すると、成は項羽の不興を買い、また范増が「禍を断つために成を誅殺すべきですぞ。」と項羽に述べたために、ついに成は処刑され晒しものになったという。
この悲報に張良は主君を惨殺した項羽に復讐を誓い、官職を辞して、成の遺体を引き取って、旧韓の地で成の葬儀を主宰して手厚く葬ったという。間もなく成の一世代下の族子(おい)に当たる信を擁立して、劉邦の正式な参謀と相成った。やがて、陳平と共に劉邦のために様々な知略を献策して項羽を滅ぼす役割を果して、亡き主君の成のための弔いに応えたという。