青山士
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青山士(あおやま あきら、1878年9月23日 - 1963年3月21日)は、静岡県磐田市生まれの土木技術者。パナマ運河建設に携わった唯一の日本人であり、荒川放水路の建設、信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した。
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[編集] 生涯
尋常小学校を卒業後に上京し、東京府尋常中学校(現在の日比谷高校)、第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部土木工学科に進学した。一高在学時に内村鑑三の講演を聞き影響を受けて門下生となった。
1903年、大学を卒業した青山は単身渡米し、技術者としてパナマ運河開削工事に携わり、この期間中ガツン閘門の設計などを担当した。アメリカにおける外国人排斥運動の影響もあり、パナマ運河の完成を見ることなく帰国。帰国後、1912年内務省に入省。同省土木局東京土木出張所(現在の国土交通省関東地方整備局)において19年に渡り荒川放水路(現在の荒川下流域)の建設工事を指揮した。1927年に内務省土木局新潟土木出張所長(現在の国土交通省北陸地方整備局長に相当する)から1934年は、自在堰の陥没により機能が停止していた信濃川大河津分水路の改修工事に従事した。
その後、第5代内務技監に就任、2年間務めるも、技官と事務官の人事紛争に巻き込まれ、責任をとる形で辞職。 太平洋戦争中、パナマ運河への攻撃を立案していた海軍からパナマ運河に関する情報提供を求められたが、土木技術者の良心に基づいて、これを拒否したと伝えられている。戦後になって、静岡・磐田の実家に隠居するが、生活に困窮したとされる。そのため、有志より県などの土木事業の技術顧問としてしばしば活動し、1963年老衰のため84歳で死去した。
[編集] 思想
青山士の生き方は、無教会主義のクリスチャンであった内村鑑三の影響を強く受け、私利私欲のためではなく広く後世の人類の為になるような仕事をしなければならない、という思想を貫いた。
この彼の思想は荒川放水路の記念碑、及び大河津分水路の改修記念碑に顕著にあらわれている。荒川と隅田川の分岐点、岩淵水門のそばにある荒川放水路の記念碑には
「此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶セン為ニ 神武天皇紀元二千五百八十年 荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ」
と書かれており青山の名前は刻まれていない。
また大河津分水路の脇にある補修工事竣工記念碑には、表面に「萬象ニ天意ヲ覚ル者ハ幸ナリ」、裏面に「人類ノ為メ國ノ為メ」と刻まれており、そこにも青山の名は刻まれていない。
[編集] 家族
[編集] 参考文献
- 高崎哲郎 『評伝 技師 青山士の生涯』 ISBN 4062069997
- 青山士写真集編集委員会 『写真集 青山士 後世への遺産』 ISBN 4381006453