霍峻
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姓名 | 霍峻 |
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読み・ピンイン | かくしゅん〔Huò Jùn〕 |
時代 | 後漢時代 - 三国時代 |
生没年 | 177年(熹平7年) - 216年(建安21年) |
字・別号 | 仲邈(字) |
本貫・出身地等 | 荊州南郡枝江県 |
職官 | 中郎将〔劉備〕→梓潼太守兼裨将軍〔劉備〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 劉表→劉備 |
家族・一族 | 兄:霍篤 子:霍弋 |
霍峻(かくしゅん、177年 - 216年)は、中国の後漢時代末期の武将。字は仲邈。荊州南郡枝江県の人。兄は霍篤、子は霍弋。
[編集] 事跡
兄・霍篤の死後、劉表の命により、霍峻がその私兵を受け継いだ。建安13年(208年)に劉表が死去すると、霍峻は劉備に仕え、中郎将に任命された。
建安17年(212年)、劉備による益州の劉璋攻めの際に、霍峻は葭萌(廣漢郡)の守備を命じられた。この時、漢中の張魯の部将・楊帛(楊白のことか?)に寝返りを勧められるもこれを断る。その後、劉璋の部将である扶禁・向存ら数万の軍勢に葭萌を包囲されたが、1年に渡り守り通す。そして数百の軍勢の中から精鋭を選抜し、城外へ出撃して扶禁・向存を破り、向存を斬った。建安19年(214年)、劉備が蜀を平定すると、その功績により梓潼太守兼裨将軍に任じられた。
その後、3年(任官された年を1年と数える)職に在ったが、建安21年(216年)に死去。享年40。劉備は彼の死を大変悲しみ、遺体を成都に迎え入れ、彼の葬儀に参列して墓の側で宿泊したという。
[編集] 物語中の霍峻
『三国演義』では、劉備の蜀討伐で初登場する。この時、蜀から劉備に付いた孟達の推薦を受け、霍峻は共に葭萌関(正史では葭萌は廣漢郡の1県で、また葭萌城と表記している)を守備する。漢中から馬超が攻め込んでくると、孟達と共に劉備に援軍を求めた。蜀平定後も、孟達と組んで葭萌関を守る。魏の張郃が攻め込んでくると、霍峻は堅守を唱えたが、孟達は出撃して大敗した。霍峻が劉備に急を告げた所、援軍として黄忠・厳顔の2老将が派遣されてきたため、霍峻は孟達と共に、諸葛亮の不手際を笑った。しかし、黄忠・厳顔の活躍で、魏軍は撃退されることになる。
なお、これらの記述については、葭萌を守ったという1点を除き、全くのフィクションである。