長谷川穂積
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基本情報 | |
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本名 | 長谷川 穂積 |
通称 | |
階級 | バンタム級 |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1980年12月16日(27歳) |
出身地 | 兵庫県西脇市 |
命日 | |
死地 | |
スタイル | サウスポー |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 26 |
勝ち | 24 |
KO勝ち | 8 |
敗け | 2 |
引き分け | 0 |
無効試合 | 0 |
長谷川 穂積(はせがわ ほづみ、1980年12月16日 - )は、日本のプロボクサー。兵庫県西脇市出身。身長167.6cm。現WBC世界バンタム級王者。
目次 |
[編集] 人物
- 日本プロボクシング発祥の地の一つである神戸の名門・神戸拳闘会の流れを汲む千里馬神戸ジムから世界を獲って地元を盛り上げた。
- 2008年1月現在、5人の日本のジム出身世界王者の中でも、辰吉や西岡らを退けてきたウィラポンから2勝(1KO)し、WBCタイトルを4回防衛し、2005年度、2006年度MVPを獲得しているのもあり、日本のジム所属の世界王者が1人の時代(冬の時代)を支えてきた徳山昌守(洪昌守)に代わる、事実上の日本プロボクシング界のエースである。また2008年に5度目の防衛を果たしたことで、ファイティング原田、薬師寺保栄の持つこの階級の防衛の日本記録を更新した。
- 専属トレーナーは、元警察官でプロボクサーとしての実績を持たないという、異色の経歴の持ち主である山下正人。
- リングを離れれば、子煩悩な2児の父親でもある。
- ボクシングと並行し、神戸市内の時計店でアルバイトをしていたが、その時計店が入っていたダイエーの閉鎖に伴い、閉店となった。
- 入場テーマは、幻想的なバラードの「Once You Had Gold(Enya)」。
[編集] 来歴
- 5人兄弟の次男として生まれる。小学2年時から元プロボクサーの父(病気のために3戦で引退)にボクシングを教わるようになるが、その厳しさに反発し中学時代は卓球部に所属。
- 兵庫県立多可高等学校を2年で中退後(別の高校の定時制に編入して卒業)に千里馬神戸ジムに入門。本格的にボクシングを始める。プロテストの一度目は体調不良もあり落ちたが、1999年11月22日、プロデビュー。4回戦時代は2度の判定負けを経験。一時期スーパーバンタム級で試合した経験も有する。
- 2003年5月18日、ジェス・マーカ(フィリピン)を12回判定に降し、OPBF東洋太平洋バンタム級王座を獲得。その後、3度の防衛に成功し、2004年12月20日に王座を返上。
- 2004年10月30日両国国技館にてWBAミニマム級王者新井田豊の初防衛戦の前座として、当時WBA4位の鳥海純と世界挑戦権をかけて対戦。10R判定で勝利し、当時WBC王者のウィラポンへの挑戦権を獲得した。ちなみにこの日は、この他にもスーパーバンタム級の日本王者中島吉謙と、ウィラポンと4度の世界戦を経験した西岡利晃の対戦や、後に日本王者となる木村章司と、WBCスーパーバンタム級王者オスカー・ラリオスのアゴを砕いた仲里繁の対戦と、豪華なカードが組まれていた。
[編集] 世界王者に
- 2005年4月16日、ちょうど20戦目にして世界初挑戦。WBC世界バンタム級王座を6年以上保持し続け、これが15度目の防衛戦となった当時バンタム級最強王者と呼ばれていたウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)と日本武道館にて対戦。長谷川は序盤から有効打を的確に当て、4Rまでリードを奪っていく。しかしウィラポンも王者の意地を見せ、試合の中盤を支配した。試合終盤に長谷川はスタミナ切れを起こし始めたウィラポンに攻め立て、10Rにはウィラポンをグラつかせた。最終12Rまで壮絶な打ち合いを演じ、3-0の判定で長谷川が勝利し、およそ6年間続いたウィラポン王朝を崩壊させ、世界王者に輝いた。この試合が2005年度年間最高試合に選ばれた。
- なお、新王者となった長谷川への表彰中、元WBC世界バンタム級王者辰吉丈一郎がリングに上り、長谷川を無視してウィラポンの片手をあげリングを一周し、そのままウィラポンと共に控え室へと帰った。ウィラポンが持っていたチャンピオンベルトも共に控え室へと消え、新王者の長谷川に巻くベルトがないという異常な事態となった。[1]
- この試合中継は関西地方では、翌日深夜の録画放送のみであった。
- この世界王座奪取が高く評価され、5月には鈴木啓示(プロ野球・近鉄元投手)、渡辺公二(西脇工業高校陸上競技部監督)に続く西脇市民栄誉賞を受賞した。
[編集] 初防衛戦
- 2005年9月25日、初防衛戦が横浜アリーナにて行われた。本来ならWBC1位のディエゴ・モラレスとの試合だったが、モラレスが練習中に負傷した為(モラレスがバンタム級のウェートを作るのが不可能であったためのドタキャンだったとの説もある<事実モラレスはその後、ずっと上の階級(ウェート)で戦っている>)、WBC8位のヘラルド・マルチネス(メキシコ)へと試合1週間前に急遽変更となった。モラレスはサウスポーなので、変更まではサウスポー対策の練習をしていたが、急遽オーソドックスのマルチネスに変わった為、長谷川は少し困惑したそうである。しかし試合では序盤からペースをつかみ、2Rにはマルチネスを2度倒した(しかしダウンととられずスリップと判断された)。そして3Rには正真正銘のダウンを奪う。7R開始早々強烈な左ストレートでダウンを奪う。その後1分も経たない内に、早い連打で2度目のダウンを奪う。そして両者捨て身の打ち合いとなり、最後には長谷川の左がマルチネスを捕らえ、3度目のダウン。この時レフェリーが試合を止めた。通算4度のダウンを奪う7回2分18秒TKO勝ちで防衛に成功。
- 初防衛をTKO勝利で飾った長谷川は、この日結婚記念日であり、インタビューで、妻に対し「おめでとう。」と言った。
[編集] ウィラポンとの再戦
- 2006年3月25日、地元神戸で世界王者となって初の凱旋試合となったこの試合は、11ヶ月前にベルトを奪った前王者、ウィラポンとの対戦となった。
- ウィラポンは前回の長谷川戦後、再起に成功(5戦5勝4KO)し、WBC1位指名挑戦者となって再び日本に戻ってきた。前回の対戦時、ウィラポンは調整ミスと囁かれており、本当の実力を出し切れていなかったのではとも言われていた。
- この試合を勝ってバンタム級最強をアピールしたい長谷川と、約1年前の屈辱を晴らしたいウィラポンの戦いは、意外に静かな立ち上がりだった。試合が進むにつれて長谷川のパンチがウィラポンを捕らえ始め、第6Rには強烈な左アッパーが炸裂、ウィラポンをダウン寸前まで追い込む。第7、8Rはウィラポンが徹底的なボディーブロー攻めで流れをつかもうとする。そして第9R開始わずか10秒、凄まじい右フックのカウンターを入れ一撃でダウンを奪う。ウィラポンは立ち上がろうとするものの、ダメージが大きく、立ち上がれずレフェリーストップがかかった。
- この試合も1年前と同じく、年間最高試合に選ばれた。
[編集] 3度目の防衛戦
- 2006年11月13日、長谷川が王座奪取に成功した日本武道館にて、WBC1位指名挑戦者ヘナロ・ガルシア(メキシコ)と対戦。第1Rは、挑戦者が前に出てきて、王者がかわしながらパンチを出す展開となった。2Rから長谷川は徐々にパンチを浴びせるようになり、4Rには左アッパーでダウンを奪う。このまま楽勝ムードで試合が進むかと思ったが、ここから挑戦者のしぶとさが目立つようになり、長谷川もパンチを浴びるようになる。長谷川は第7Rには挑戦者のヒッティングにより軽くカットし、8Rにはバッティングによるカットで血まみれになりながら戦い、8R終盤にはこの日2つ目のダウンを奪う。最終12Rには、高いディフェンス能力を見せ付けた。最終的に12R判定(3-0)で完勝したものの、KO防衛出来なかった事を観客に謝罪していた。
- 試合後の控え室で、当時WBCスーパーフライ級王者徳山昌守(洪昌守)から挑戦状を渡された。もしこの対戦が実現すれば、薬師寺保栄vs辰吉丈一郎や、畑山隆則vs坂本博之以来の国内ビッグマッチになるのだが、長谷川は海外進出を強く希望していたため実現しなかった。結果、徳山は引退を迎えることになった。
[編集] 4度目の防衛戦
- 2007年5月3日、有明コロシアムにて、WBC世界4位のシンピウィ・ベトイェカ(南アフリカ)と対戦。史上初となる日本vs南アフリカの世界戦対決だったが、長谷川が判定勝ちして、4度目の防衛を飾った。
- この日は、長谷川vsベトイェカの他、エドウィン・バレロ(WBAスーパーフェザー級王者)vs本望信人(角海老宝石)、名城信男(六島)(WBAスーパーフライ王者)vsアレクサンデル・ムニョス(ベネズエラ)、と3つの世界タイトル戦が組まれた。メインを飾った長谷川は、この日の日本人選手唯一の勝利であった。
[編集] ジム移籍
- 2007年9月20日、専属トレーナーだった山下正人が千里馬神戸ジムから独立し、新しく真正ジムを旗揚げしたことに伴い、長谷川自身も千里馬神戸ジムから真正ジムへ移籍することが発表された。
日本のプロボクシング史上、現役世界王者が所属ジムを国内間で移籍する事は初めてのケースとなった。
[編集] 5度目の防衛戦
- 2008年1月10日、大阪府立体育会館第一競技場に於いて、欧州バンタム王者でありWBC世界同級1位のシモーネ・マルドロット( イタリア)を挑戦者に迎え5度目の防衛戦に臨んだ。前述のジム移籍問題があった為、8ヶ月ぶりの試合となった。
午後8時5分、開始のゴングが鳴らされた。試合は序盤、長谷川が右目上を大きくカットし流血するというアクシデントに見舞われた。中盤以降は王者、挑戦者の両者共に譲らず激しい打撃戦を繰り広げた。右目上をカットした長谷川は、要所で的確に有効打を決め、確実にポイントを集めた。最終12ラウンドでは両者が真っ向から打ち合い、世界戦に相応しい好試合となった。
試合は長谷川が大差の判定勝ちを収め、日本人ボクサーで初めて世界バンタム級王座を5度防衛する偉業を成し遂げた。
[編集] 6度目の防衛戦
- 2008年6月12日、日本武道館に於いて、WBC世界同級9位のクリスチャン・ファッシオ( ウルグアイ)を挑戦者に迎え6度目の防衛戦に臨んだ。
午後8時5分、開始のゴングが鳴らされた。第1Rのゴングから長谷川が積極的にパンチを当て、ファッシオを圧倒すると、続く第2R、カウンターの左ストレートがヒットし、ファッシオからダウンを奪う。ファッシオは何とか立ち上がったものの、長谷川の猛攻は止まらず、2度目のダウンを奪ったところでレフェリーが試合を止めた。
長谷川の世界戦ノックアウト勝ちは、2006年3月の2度目の防衛戦以来。連続防衛記録を6と伸ばすと共に、試合終了後、「次はラスベガスで防衛戦をやりたい」と長谷川は予てから希望している海外進出への意欲を滲ませた。
[編集] 戦績
プロボクシング: 24勝(8KO)2敗
[編集] 獲得タイトル
[編集] 受賞歴
- 西脇市民栄誉賞(西脇市、2005年5月29日)
- 2005年度最優秀選手賞(=MVP、JBC、2006年1月20日)
- 2006年度最優秀選手賞(=MVP、JBC、2007年1月23日)
- 2006年度年間最高試合賞(= 2005年3月25日 WBC世界バンタム級タイトルマッチ 長谷川穂積 vs. ウィラポン・ナコンルアンプロモーション、JBC、2007年1月23日)
- 第51回関西スポーツ賞特別賞(関西運動記者クラブ、2008年1月21日)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
前王者 |
第26代WBC世界バンタム級王者 2005年4月16日 - 今現在 |
次王者 |