金野郡
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金野郡 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 금야군 |
漢字: | 金野郡 |
平仮名: (日本語読み仮名) |
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片仮名: (現地語読み仮名) |
クミャ=グン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
ローマ字転写: | Kŭmya kun |
金野郡(クミャぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道の南部に位置する郡。
かつては永興郡(えいこうぐん/ヨンフンぐん)と呼ばれた。
目次 |
[編集] 地理
北は定平郡、北西に耀徳郡、南西に高原郡と隣接している。東は日本海海岸に位置し、南は虎島半島によって外海から隔てられた永興湾である。
耀徳郡に源を発する金野江が郡内に平野をひらき、永興湾に注いでいる。
[編集] 歴史
現在の金野郡(旧・永興郡)の範囲は、北朝鮮によって1952年に再編成されたものがもとになっている。それまでの咸鏡南道永興郡の範囲は、現在の耀徳郡を含んでいた。永興郡が金野郡に改められたのは1977年である。
この一帯は古代の高句麗の地で、高麗に入ると和州が置かれて辺境防衛の要地となった。13世紀半ばにはモンゴル帝国の圧迫を受けるとこれに降り、モンゴルによって双城総管府が設置された。1356年、双城総管府が陥落して高麗が支配を回復し和州牧を置くが、このとき功績があったのが李子春とその子李成桂(のちの朝鮮王朝建国者)であった。
1393年に永興府が置かれ、一時は朝鮮東北地域を統治する観察使の役所も置かれた。
日本統治下では永興湾が要塞に指定され(永興湾要塞)、虎島に砲台が築かれた。
1952年、永興面・憶岐面・長興面全域と順寧面の主要部、鎮坪面・横川面・仁興面の各一部によって永興郡が再編された。
[編集] 年表
- 高句麗 - 長嶺鎮がおかれ、博平郡とも称された。
- 高麗 - 和州と呼ばれた。
- 995年 - 安辺都護府に属した。
- 1028年 - 和州防禦使が置かれた。
- 1258年 - モンゴル帝国により双城総管府が置かれた。
- 1356年 - 高麗に復し、和州牧が置かれた。
- 1369年 - 和寧府となった。
- 1393年 - 永興府と改称した。
- 1470年 - 観察使営が永興府に置かれた(永安道)。
- 1509年 - 観察使営が咸興府に移転し(咸鏡道)、永興は永興大都護府となる。
- 1895年 - 咸興府永興郡となる(二十三府制)
- 1896年 - 咸鏡南道永興郡となる。
- 1952年12月 - 耀徳郡・仁興郡を分離し、永興郡を再編。
- 1974年1月 - 仁興郡を廃止し、永興郡に編入した。
- 1977年3月 - 郡名を金野郡に改める。
- 1986年5月 - 耀徳郡の一部を編入する。
[編集] 出身者
- 後藤明生 - 小説家、1932年永興邑生まれ。
[編集] 外部リンク
- (朝鮮語) 中央日報北韓ネット・北韓地名辞典 金野郡
- (朝鮮語) 咸鏡南道 (以北五道委員会)
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市 | 咸興市 | 新浦市 | 端川市 |
区 | 水洞区 |
地区 | 琴湖地区 |
郡 | 咸州郡 | 楽園郡 | 定平郡 | 金野郡 | 高原郡 | 耀徳郡 | 長津郡 | 赴戦郡 | 栄光郡 | 新興郡 | 洪原郡 | 北青郡 | 徳城郡 | 利原郡 | 虚川郡 |