道武帝
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政権 | 北魏 |
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廟号 | 太祖・烈祖 |
諡号 | 道武皇帝 |
姓・諱 | 拓跋珪 |
生没年 | 371年 - 409年 |
在位期間 | 386年 - 409年 |
父 | 拓跋寔君 |
母 | |
陵墓 | |
元号 | 登国:386年 - 396年 皇始:396年 - 398年 天興:398年 - 404年 天賜:404年 - 409年 |
道武帝(どうぶてい、371年 - 409年)は、北魏の創始者、初代皇帝(在位:398年(天興元年) - 409年(天賜6年/永興元年))。廟号は太祖。姓は拓跋(たくばつ)、諱は珪(けい)。
[編集] 略歴
鮮卑拓跋部の創始者である拓跋力微の玄孫である。拓跋鬱律(平文帝)の曾孫で拓跋什翼犍(高祖)の孫。鮮卑拓跋部の拡大に努めた拓跋猗盧は従曾祖父(高祖父・拓跋力微の甥)である。拓跋翳槐は大伯父に当たる。
371年に父の拓跋寔君は、武将の長孫斤(鮮卑姓は賀抜か賀若部)の反乱によって落命したという。さらに376年には祖父の拓跋什翼犍も庶長子(拓跋寔君の兄)によって後嗣問題で殺害された。このため、弱体化した拓跋部の代は庫莫奚と結んだ前秦の苻堅によっていったん滅ぼされて前秦の支配下に入った。祖父と父を失った幼い拓跋珪は生母の実家である鮮卑賀蘭部の東部大人であった外祖父の賀蘭野于を頼ったという。
やがて、成長した拓跋珪(道武帝)は苻堅が亡くなると、親戚でもある鮮卑独狐部の酋長の劉庫仁の後盾を得て、386年に中川(山西省)で旧民を糾合し、代王に即位して盛楽に都を置いて自立した。まずは、河北に進出して同地を制圧し、モンゴル系柔然などを討伐した。さらに、391年にはシラムレン河下流で仇敵の庫莫奚を、内蒙古の科布多(カフタ)でテュルク系高車を征服した。396年に、匈奴鉄弗部の劉衛辰(赫連勃々の父)の軍勢を破って、これを斬り捨てた。398年には平城(現在の山西省大同)を都として定め、北魏を創始したのである(ただし、国号を正式に北魏として定め、皇帝として即位したのは翌399年のことである)。
[編集] 治世
即位後、部族民による合議制を廃して中央集権化を目指す一方で、それまで野蛮と言われた民族の習慣を打破するために漢民族の文化を積極的に取り入れた。また、多民族統一の手段として仏教を積極的に取り入れ、泰山の沙門竺僧朗を厚遇し、平城に堂塔を建立するなどした。皇始年間には、趙郡の沙門法果を道人統に任じて、僧徒を統率させた。
ところが、やがて道士の調合した薬を飲んで精神に異常をきたし、躁怒常なく、自分の妻に乱行を繰り返したため、409年に夫に虐待された生母の賀蘭氏(道武帝の母方の従姉)の身を案じた次男の拓跋紹によって殺害された。
[編集] 宗室
- 后妃
- 道武皇后慕容氏
- 道武宣穆皇后劉氏
- 道武貴妃賀蘭氏(道武帝従姉)
- 子
- 明元帝 拓跋嗣
- 清河王 拓跋紹
- 陽平王 拓跋熙
- 河南王 拓跋曜
- 河間王 拓跋脩
- 長楽王 拓跋處文
- 広平王 拓跋連
- 京兆王 拓跋黎
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