趙爾巽
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趙爾巽(ちょうじそん、道光24年(1844年) - 民国16年(1927年))は、清朝末期の政治家。養子に入って漢軍正藍旗人となったが、祖先は盛京(現在の遼寧省)・鉄嶺の人。字は公鑲、号は次珊。清末に地方官を歴任し、特に東三省総督時代は辛亥革命勢力の押さえ込みに成功し、後世の史家をして「最も革命の遅れた地方」と言わしめた。辛亥革命後は袁世凱・段祺瑞政権下で『清史稿』編纂の主幹を担った。弟に清末のチベット攻撃などで有名な趙爾豊がいる。
[編集] 年表
- 1867年(同治六年)郷試に合格し、挙人になる。
- 1874年(同治十三年)殿試に合格し、進士になる。翰林院に進んだ後、安徽省・陝西省等の按察使、甘肅省・新疆・山西省の布政使を歴任する。
- 1902年(光緒二十八年)11月、山西巡撫を拝命する。
- 1903年(光緒二十九年)湖南巡撫に着任する。
- 1904年(光緒三十年)4月、中央に戻り戸部尚書(今の大蔵大臣)に着任する。
- 1905年4月、盛京将軍として赴任する。
- 1907年3月、四川総督にも就任したため、後々の事を弟の趙爾豊を代理として任せる。
- 1907年7月、湖広総督の張之洞が軍機大臣に就任するために中央に戻ると、その後を受けて湖広総督に任命される。この期間に湖北法政学堂(後の湖北省立法科大学)を設立している。
- 1908年2月、四川総督に復帰。
- 1911年(宣統三年)3月、錫良の後任として東三省総督に就任、欽差大臣を兼務する。
- 1911年、中国全土で反清運動(辛亥革命)勃発。趙爾巽は省内各地に治安維持のための「奉天保安公会」を設置、地方官だけでなく民間有力者も治安維持任務の中に組み込んでいく。
- 1912年、張作霖の部隊を動員して、奉天で武力革命を企図していた反清運動家を一斉弾圧。これにより南京臨時政府との関係が悪化し、北伐軍が組織される。
- 1912年(民国元年)2月、南北和議が成立し、趙爾巽の体制はそのまま維持されることになり、民国政府から奉天都督に任命される。
- 1913年、青島に隠棲する。
- 1914年、袁世凱に清史館の館長を任される。そこで趙爾巽が中心となって『清史稿』が編纂される。
- 1925年2月、段祺瑞の北京臨時政府成立の折にはその会議の議長に推される。5月には臨時政府の参政院の参政として招聘され、参政院の院長にも指名された。
- 1927年、『清史稿』が脱稿してまもなく北京で逝去。
著作には『刑案新編』・『趙留守攻略』等がある。
[編集] 趙爾巽の功績
清朝では制度上、地方官の地元への派遣は腐敗の恐れありとして制度上行っていなかったが(本籍廻避)、趙爾巽は家柄は養子先の漢人八旗であったため盛京将軍・東三省総督に就任が可能であり、そこで生家である満州族の人脈を生かして活躍した。盛京将軍に就任した時期は、義和団事件とそれに引き続くロシアの東三省占領、さらに日露戦争に伴い行政組織や地域そのものが非常に混乱した中にあった。しかし趙は馬賊の帰順を促すなど治安の維持に力を注ぎ、さらに東三省へなだれこんでくる漢族流民への農地を確保し、財政を安定させる(領域内の収支を黒字にもちこんだといわれる)ことに成功した。また、辛亥革命時の動乱期には、帰順した元馬賊の張作霖を活用して革命派を弾圧し、東三省の治安維持に成功するなど実務家としても非常に優秀であった。ただし、趙の取った政策が満州族の故地であった東三省の漢地化をさらに促進することともなってしまった。
晩年は『清史稿』編纂に携わるなど学者としての側面も見せるが、動乱の時局が充分な校正時間を許さず、完成した『清史稿』には年号・人名等の誤りが多いと言われている。また、『清史稿』そのものも趙爾巽死後に発生した清史館の内紛によって流転の運命を辿る事になった。