西田真二
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西田 真二 Shinji Nishida |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県和歌山市 |
生年月日 | 1960年8月3日(47歳) |
身長 体重 |
174cm 82kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1982年 ドラフト1位 |
初出場 | 1983年4月17日 |
経歴 | |
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西田 真二(にしだ しんじ、1960年8月3日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手、元野球解説者で現在は四国・九州アイランドリーグ・香川オリーブガイナーズ監督である。
旧名:真次。既婚(現在の妻とは現役引退後に結婚)で、妻との間は子があることを公表している。
目次 |
[編集] 来歴・人物
和歌山市役所職員(同準硬式野球部々員)の父のもとに出生、小3で貴志少年野球団入団。競技生活開始。西田が小5のときから実父が指導に参画、翌年実父が監督に昇格し、この年の市春季大会で貴志少年野球団は優勝。尚、西田は当時の父について実子・真二を特別扱いすることなく、むしろ真二ですら恐れる厳格な指導者・監督だったと自著で回顧・記述している。
和歌山市立河西中学校三年次の県大会優勝を機に同年11月、河西中より、PL学園中学校へ転校。これはあまたの強豪高からの勧誘の殺到があり、返事を先送りすべきでないという実父の決断・進言によるものだった。なお河西中時代、有田市立保田中学校(エース石井毅)に敗れたという苦い経験ももつ。
PL学園高時代はエース兼打撃の主軸。大阪高校球界の評価を一期下だった浪商の牛島和彦と"右の牛島、左の西田"と二分していた。1978年(3年時)、春のセンバツでベスト8。(しかも西田-PLに勝ったのは石井・嶋田を擁した和歌山県立箕島高等学校)であった。
エース・4番として出場した1978年、3年時の夏の甲子園では、木戸克彦とバッテリーを組み、準決勝・決勝で逆転のPLと呼ばれる奇跡的な勝利を挙げて全国制覇を成し遂げた(この時のチームメイトには金石昭人がいる)。その後、木戸と共に法政大学に進学し、外野手に転向後リーグベストナインに5度選出されるなど活躍、1983年ドラフト1位で広島東洋カープに入団。(木戸も同じくドラフト1位で阪神タイガースに入団)
西田が入団したころの広島は山崎隆造など堅守を誇る外野のレギュラー層が厚かったことと、西田自身守備に難があり、また打席での集中力が継続できない欠点から主に現役13シーズンはほとんど代打としての活躍となった。思い切りの良いバッティングで鳴らし、1983年には4連続代打本塁打というセ・リーグタイ記録をマーク。
打撃における”配球の読み・ヤマを張る”などのいわゆる”勝負カン”においては当時どころか広島のチーム史で他に代わる者がないといわれたものがあった。チームの先輩だった達川光男が残した、西田の特質を語る名言が伝わっている。
- 「前田は努力で天才の域に達した男、努力すればするほど良くなります。
- 西田は生まれついての天才、(但し)努力したら見事につぶれます。」
1991年には4番バッターとしてチームのリーグ優勝に貢献し、優勝決定戦で決勝タイムリーを放つなどの活躍を見せた。その後も代打の切り札などで活躍し、1995年シーズン終了後に現役を引退。同年の引退は町田公二郎・金本知憲らの当時台頭してきた若手外野手陣との競争の限界と、同年春・夏の二度の足の負傷-「ヒット打って走塁しただけで足を怪我するようじゃプロ失格」-が理由であった。
引退後は、RCCの野球解説者として、親しみやすい語り口と明解な解説で定評を得る。1999年、達川光男の広島監督就任に伴い、一軍打撃コーチに就任。2001年に山本浩二が監督に就任した後も、1年間二軍打撃コーチを務めた。2002年からは、広島ホームテレビの野球解説者。
2005年、四国アイランドリーグ・愛媛マンダリンパイレーツの監督に就任。中谷翼、西山道隆らプロ入りする選手を輩出するもチーム成績はリーグ最下位と低迷し、シーズン終了後の同年12月22日、IBLJ(四国アイランドリーグ運営会社)代表の石毛宏典より「リーグに対する方向性が違う」と来季の契約を結ばない旨を通告され、退団。
2006年4月、「お世話になった広島に恩返したい」と、広島県安芸太田町に設立された社会人野球チーム広島レッドフェニックスの監督に就任した。同年10月27日、四国アイランドリーグ・香川オリーブガイナーズの監督に来シーズンから就任することが発表され、芦沢真矢の後を受けて2代目の監督となった。四国アイランドリーグには2年ぶりの復帰。最初のシーズンとなった2007年は、前期・後期の連覇に加え、年間チャンピオンシップでも優勝する完全優勝にチームを導いた。さらに、石川ミリオンスターズとの間で行われた独立リーグのグランドチャンピオンシップも制し、1年の間に4度の胴上げを受けることになった。
[編集] エピソード
- 1978年夏の甲子園にて、準決勝・対中京高校戦、決勝・対高知商業戦と、2試合連続逆転勝ちを収めた。決勝では、2点差で迎えた九回裏ツーアウトから同点タイムリーを放ち、『逆転のPL』というジンクスを体現した。
- PL高・法大時代は同期の木戸・一期下の小早川毅彦とは西田・木戸の法大卒業まで私生活でも浅からぬ親交があった。またPL時代西田があまりにも不感心な言動をとったのに耐えかね、木戸が西田に鉄拳を見舞ったとの逸話が伝えられている。
- 現役時代は、山本浩二や三村敏之、達川ら先輩からかわいがられ、前田智徳や緒方孝市といった後輩から『師匠』と呼ばれるなどして慕われていた。しかしその一方、古葉竹識・阿南準郎の両監督とは不仲であったとされている(事実、山本が監督に就任した89年から西田の出番が増えた)。
- 松原誠や張本勲などの大打者からそのバットコントロールの技術を絶賛される。
- 2007年5月20日の徳島インディゴソックスとの試合で、判定をめぐって審判に暴言を吐いたとして、四国アイランドリーグ創設以来監督としては初めての退場処分を受けた。
[編集] 所属球団
- 広島東洋カープ(1983年 - 1995年)
- 広島東洋カープ・一軍打撃コーチ(1999年 - 2000年)
- 広島東洋カープ・二軍打撃コーチ(2001年)
- 愛媛マンダリンパイレーツ・監督(2005年)
- 広島レッドフェニックス・監督(2006年)
- 香川オリーブガイナーズ・監督(2007年 - )
[編集] 背番号
[編集] 通算成績
年度 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二打 | 三打 | 本打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗刺 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺 | 打率 | 失策 |
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1983 | 59 | 68 | 8 | 16 | 2 | 0 | 4 | 30 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 18 | 1 | .235 | 0 |
1984 | 71 | 97 | 7 | 24 | 7 | 1 | 2 | 39 | 15 | 0 | 0 | 1 | 0 | 9 | 0 | 20 | 2 | .247 | 0 |
1985 | 64 | 63 | 4 | 17 | 4 | 0 | 2 | 27 | 18 | 3 | 0 | 0 | 3 | 8 | 1 | 13 | 0 | .270 | 1 |
1986 | 25 | 21 | 1 | 4 | 1 | 1 | 0 | 7 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 9 | 0 | .190 | 0 |
1987 | 62 | 73 | 5 | 20 | 6 | 0 | 1 | 29 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 13 | 1 | .274 | 0 |
1988 | 62 | 56 | 3 | 16 | 5 | 0 | 1 | 24 | 8 | 1 | 0 | 0 | 1 | 11 | 1 | 11 | 1 | .286 | 0 |
1989 | 82 | 200 | 17 | 71 | 14 | 0 | 9 | 112 | 27 | 2 | 3 | 0 | 0 | 23 | 1 | 40 | 4 | .355 | 0 |
1990 | 77 | 186 | 31 | 65 | 12 | 1 | 13 | 118 | 36 | 4 | 2 | 0 | 1 | 18 | 2 | 28 | 2 | .349 | 0 |
1991 | 102 | 315 | 37 | 91 | 14 | 1 | 7 | 128 | 51 | 6 | 3 | 3 | 3 | 60 | 4 | 72 | 7 | .289 | 0 |
1992 | 93 | 255 | 23 | 59 | 16 | 0 | 5 | 90 | 32 | 5 | 0 | 1 | 5 | 35 | 0 | 49 | 3 | .231 | 2 |
1993 | 34 | 37 | 1 | 9 | 0 | 0 | 0 | 9 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | 9 | 1 | .243 | 0 |
1994 | 41 | 36 | 0 | 8 | 0 | 0 | 0 | 8 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | 9 | 4 | .222 | 0 |
1995 | 5 | 5 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .400 | 0 |
通算 | 777 | 1412 | 137 | 402 | 81 | 4 | 44 | 623 | 226 | 21 | 8 | 5 | 15 | 185 | 10 | 293 | 26 | .285 | 3 |
[編集] タイトル・表彰
- 初出場 1983年4月17日中日戦(広島) 9回達川光男選手の代打、牛島和彦投手の前に三振
- 初安打 1983年5月10日巨人戦(広島) 5回新美敏投手の代打、江川卓投手から単打
- 初本塁打 1983年6月18日中日戦(広島) 6回北別府学投手の代打、郭源治投手から右越ソロ
[編集] 著書
- 西田真二の「ここで一発!」(㈱アスリート刊)
[編集] 関連項目
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広島東洋カープ 1982年ドラフト指名選手 |
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1位:西田真二 / 2位:白武佳久 / 3位:定岡徹久 / 4位:太田龍生 / 5位:鍋屋道夫 / 6位:田中和博 |