藤原範永
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藤原範永(ふじわらののりなが、生没年不詳)は、平安時代後期の官人・歌人。藤原北家長良流。参議藤原清経(長良の6男)の後裔。尾張守藤原仲清(藤原中清とも表記)の子で、母は藤原永頼女。和歌六人党の一人。子に藤原良綱・藤原清家・藤原永綱・藤原季仲と、承香殿女御(藤原道子と推定される)に仕えて尾張と呼ばれた娘(藤原範永女)がいた。
長和5年(1016年)蔵人に任ぜられ、その後、式部大丞・春宮少進などを経て、尾張国・但馬国・阿波国などの国守を歴任。天喜4年(1056年)左大臣家司賞により正四位下に叙せられる。康平8年(1065年)摂津守となり、延久2年(1070年)頃に出家して津入道と号した。
歌人としては和歌六人党の指導者的役割を果たし、能因・相模・出羽弁・藤原家経・藤原兼房・忠命らと幅広く交流していた。永承5年(1050年)祐子内親王家歌合、天喜4年皇后宮(藤原寛子)春秋歌合などに出詠しており、また天喜6年(1058年)と康平6年(1063年)の2度行われた丹波守公基家歌合の判者となった。若い頃、遍照寺で詠んだ「住む人もなき山里の秋の夜は月の光もさびしかりけり」という和歌が藤原公任に激賞され、その詠草を錦の袋に納めて重宝したと言われ(『袋草子』上)、範永の歌才は同時代のみならず後代においても高く評価されていた。『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に30首の詠歌が入集。家集に『範永朝臣集』がある。
後代、長子・良綱の後裔からは衣文道の家として知られる高倉家を輩出し、さらに堀河家、樋口家が分かれて、それぞれ繁栄した。