藤原為隆
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藤原 為隆(ふじわら の ためたか、延久2年(1070年)‐大治5年(1130年))は、平安時代後期の公卿。藤原北家高藤流(勧修寺流)。参議藤原為房の長男。母は美濃守源頼国女。藤原顕隆・藤原重隆・藤原長隆らの同母兄。室に近江守藤原有佐女・遠江守源基俊女らがおり、子に藤原憲方・藤原光房・藤原憲光・源顕雅室・平実親室・藤原宗能室・藤原俊経室・藤原親隆室・源俊隆室らがいた。日記『永昌記』の作者。
寛治元年(1087年)叙爵。蔵人・木工頭・左中弁・勧学院別当・遠江守・造東大寺長官などを経て、保安3年(1122年)正月に蔵人頭に補任され、同年12月参議になった。その後、讃岐権守・周防権守などを兼帯。大治2年(1127年)10月には六角小路南・坊城小路にしに仏堂を建立したが、これは丈六阿弥陀像・薬師如来像・不動明王像などを安置し、「風流絶妙なり」(『中右記』大治2年10月17日条)と世人に称されたという。大治5年、痢病のため薨去。享年61歳だった。最終官位は従三位参議左大弁勘解由長官だった。
藤原師通・藤原忠実及び源師子(忠実室)の家司を務め、「関白摂政の後見(うしろみ)して、家の下文に判して候らむ」と評されるほど重要な役割を果たした。寛治2年(1088年)、忠実の元服に際して理髪の役を務めている。四条坊門(永昌坊)に邸宅を有しており、彼の日記『永昌記』の名はこれに由来する。また三条坊門万里小路や烏丸二条にも邸宅を所有しており、忠実がたびたび方違えに使っている。