藤原惟方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原 惟方(ふじわら の これかた、天治2年(1125年)-?)は平安時代末期の公家。父は観修寺流藤原顕頼(「夜の関白」と称された藤原顕隆の子)。母は藤原俊忠の娘俊子。同母兄弟に光頼、成頼がある。通称を粟田口別当という。
永治元年(1141年)、美福門院分国である越前国の国司を皮切りに各地の国司を歴任。保元3年(1158年)蔵人頭と参議になる。母が二条天皇の乳母であった関係から、藤原経宗らとともに天皇親政派を組織し、後白河上皇院政派の中心人物である藤原信西と対立、その一方で院政派ながら同様に信西と反目していた甥(姉妹の子)の藤原信頼と接近する。
このため、平治元年(1159年)の平治の乱においては、はじめ信頼や源義朝らとともに内裏を占拠、信西を殺害して気勢を上げる。だが、信頼の器量に不信感を抱く兄の光頼の戒めもあって、程なくして信頼からの離反を決意。経宗や妻の兄弟の藤原尹明らと共謀し、信頼によって内裏に監禁されていた天皇を女装させた上で脱出させ、戦局の行方を決定的なものにした。
こうした功績をもとに、乱の後一時的に権勢を得るが、かねてより対立関係にあった後白河上皇によって次第に政治生命を狙われることとなる。永暦元年(1160年)、上皇が好んで市井の様子を眺めていた藤原顕長邸の桟敷を強引に封鎖したことから、上皇の命を受けた平清盛によって経宗とともに逮捕される。上皇の怒りは激しく、二人を面前に引き据えて拷問した上、惟方を長門国、経宗を阿波国にそれぞれ流罪とした。惟方はこの際に出家し、法名を寂信と称している。
六年後に赦免、召還されたが、二度と中央政界に返り咲くことはなかった。晩年は和歌の道に安らぎを見出し、穏やかに過ごしたとされている。子孫は堂上家の甘露寺家として後世に続いている。