藤原信子
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藤原信子(ふじわらののぶこ)
[編集] 藤原信子(土御門天皇の乳母)
藤原信子(ふじわらののぶこ、生年不詳-安貞元年11月(1227年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての女官。按察使と呼ばれた。藤原顕憲の孫。能円の娘。姉に承明門院源在子がいた。藤原能保及び源通具の妻で、堀川具実の母。
姉の在子が後鳥羽天皇の寵愛を受けて為仁親王(後の土御門天皇)の生母になった縁故で、信子も為仁親王の乳母を務めた。また彼女は和歌で後鳥羽上皇に仕え、禁色をも許されるほどの有力な女官だった。初め権中納言藤原能保の妻になったが、その後源通具の妻になった。当時通具には先妻として藤原俊成女がいたが、信子との関係が契機となって俊成女は通具と疎遠となり、藤原定家を嘆かせている。安貞元年(1227年)11月に病死したが、死因は赤班瘡に邪気が加わったためだと言われている。
[編集] 藤原信子(後土御門天皇の生母)
藤原信子(ふじわらののぶこ、応永18年(1411年) - 長享2年4月28日(1488年6月8日))は後花園天皇の後宮。女院・嘉楽門院。右馬助藤原孝長女。初名は郷子。後土御門天皇・観心女王の母。
初め和気郷成の猶子になっていたが、後に藤原保家の猶子になり、更に大炊御門信宗の猶子として8歳年下の後花園天皇に入内し、後土御門天皇と観心女王を産んだ。文正元年(1466年)4月従二位に叙位され、二位局と称された。後花園院と死別した翌年の文明3年(1471年)正月落飾し、法名を栄良と称した。同年准三宮になる。文明13年(1480年)7月院号宣下を受けて嘉楽門院と号し、また居住地に因んで東洞院殿とも呼ばれた。長享2年(1488年)4月28日、78歳で没した。