藤原仁善子
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藤原 仁善子(ふじわら の よしこ、生年不詳 - 天慶8年12月20日(946年1月25日))は、文献彦太子保明親王(醍醐天皇皇太子)の御息所。本院御息所と呼ばれた。正五位下に叙された。左大臣藤原時平の娘(四女あるいは五女)で、母は廉子女王(仁明天皇皇孫)だと思われる。煕子女王と慶頼王の母。名は「ひとよしこ」とも読む。
延喜16年(916年)10月、叔母にあたる藤原穏子(醍醐天皇中宮)の強力な推挙によって東宮保明親王の元服の夜に入内した。仁善子は保明親王との間に1男1女を儲けたが、天慶8年(945年)12月20日卒去した。
ところで、『尊卑分脈』には時平の娘の中にこの「仁善子」の名はなく、他方醍醐天皇の女御となった藤原定方女を「仁善子」と表記している。しかしこの女御(定方女)を「仁善子」と記すのは『日本紀略』と『一代要記』であり、一方『九条殿記(九暦)』『本朝世紀』では時平女の方を「仁善子」と記している。ここでは時平女という説を採ることにする。