藤原穏子
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藤原穏子(ふじわら の おんし・やすこ、仁和元年(885年) - 天暦8年1月4日(954年2月9日))は、関白藤原基経女。母は操子女王(人康親王女)。第60代醍醐天皇中宮、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇生母。別名五条后。
昌泰4年(901年)醍醐天皇に入内、女御となる。延喜9年(909年)従三位、延長元年(923年)中宮に冊立。延長8年(930年)醍醐天皇譲位、間もなく崩御。朱雀天皇即位。承平元年(931年)皇太后。天慶9年(946年)村上天皇即位、太皇太后。天暦8年(954年)、内裏昭陽舎にて崩御。享年70。
皇太子保明親王を出産するも親王は早世、孫の慶頼王も僅か5歳で没したが、保明親王の死と同年に立后、さらに寛明親王(朱雀天皇)と成明親王(村上天皇)を相次いで出産して2代の国母となり、摂関政治全盛への基盤を固める。崩御まで朱雀天皇・村上天皇どちらにも皇后が立たなかったため、生涯を通じて後宮唯一の后であり続けた。なお穏子立后の際に中宮職が置かれ、以後これが主流となった。