薛綜
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薛綜(せっそう、187年?-243年)は、中国三国時代の呉の武将・政治家。字は敬文。戦国時代斉・魏・秦の宰相孟嘗君の末裔、長男に薛珝、次男に薛瑩がいる。
沛郡竹邑の人。戦国時代から続く名門の出身者であると言われている。若い頃に戦乱を避けて一族の住む交州へ移住する。士燮が呉に帰順した頃(建安末年)から孫権に仕え、五官中郎将となった。弁舌に優れ、文章に巧みであったと言われている。『三国志演義』では赤壁の戦いにおいて孫権に降伏を進言し、諸葛亮に論戦を挑んで喝破されているが、『三国志 (歴史書)』によればこの頃はまだ交州にいたものと考えられる。
その後、呂岱と共に交州に遠征し、その平定に功を挙げた。その功績により、謁者僕射に任じられた。呂岱が中央に召還される頃に提出された文書は、当時の交州の様子を知る資料として貴重である。その後も選曹尚書、皇太子孫和の補佐役などを任されている。243年の春に死去した。
逸話として、蜀の使者が呉を訪ねたとき、呉を笑いものにしたことがあった。それに対して薛綜は、その使者に対して言い返し、逆に使者を笑いものにしたと言われている。このときの蜀の使者は張奉と費禕の二説ある。
著書に『私載』『五宗図述』などがある。また、後漢の張衡の「二京の賦」に対する注釈である「二京解」は、『文選』の李善注に取り入れられ、今に伝わる。