費イ
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本来の表記は「費禕」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
費禕(ひい、? - 253年、拼音: Fèi Yī)は、後漢末期から三国時代の人で、蜀漢の政治家・武将。字は文偉。 費承・費恭の父。娘は皇太子劉璿の妃となっている。蔣琬・董允などとともに蜀の政治面を支えた人物。諸葛亮・蔣琬・董允と共に蜀の四相と称される。
『三国志』・蜀書に伝が立っている。荊州江夏郡鄳(現在の湖北省武漢市江夏区)の人。父母を早くに亡くし、一族で一世代上に当たる費仁に身を寄せた。仁の姑は当時益州の牧(地方長官)であった劉璋の母であり、この縁から費仁は当時の混乱の中で比較的安定していた益州に呼ばれ、費禕も義父のはからいで益州へ遊学した。
214年、劉備が蜀を支配した際に、その家臣となる。董允・許叔龍(不明・同郷であることや、その後の内容から許靖の子か)とともにその盛名をうたわれた。政治手腕に優れ、劉備や諸葛亮から厚く信頼され、友人の董允と共に劉備の嫡子劉禅の補佐を任された。諸葛亮の命を受けて呉に交渉に向かったときには、呉主孫権の傍らにあった諸葛恪・羊茞から舌鋒鋭く論争をいどまれるが、辞儀を乱さずに理にしたがって答えてついに屈せず、孫権から「君は幾許もせずに必ず蜀の中心人物になる」とその人物と才能を高く評価された。
諸葛亮の北伐では国内に残って政治を担当していたこともあれば、参軍として参加したこともある。そのころ幕営では、常に将軍魏延と文官の楊儀がいがみ合い、時に魏延が刃をちらつかせて脅し、楊儀が恐れて泣くような事態があった。費禕はそのようなことがあると常に二人の席の間に入り、ものの分別を二人に諭した。力があっても、難しい性格の二人が使い物になったのは、費禕のとりなしがあってのことであった。
諸葛亮の死後、後軍師を経て尚書令となり、蔣琬と共に蜀漢を支えた。蔣琬の病が重くなった243年には大将軍・録尚書事に昇進、後には益州刺史も兼任した。北伐の再開を計画する蔣琬に反対し、姜維が大軍を動かして北伐の再開を希望した際も「丞相(諸葛亮)でさえ魏を破れなかったのに、我らでは到底無理だ」と制して多くの兵を与えず、まず内政の安定を計ることを第一としていた。
費禕伝に引かれている『禕別伝』によると、尚書令時代の費禕は日々の膨大な政事を過ちなくこなしつつも、宴席やばくち事などにも遊びほうけていた。しかし、同職を引き継いた董允がこれを真似ようとすると、数日で仕事が大きく遅滞した。董允は「人の能力の差とはこれほどあるものか。私の力は(費禕に)全く及ばない。一日中仕事をしていても、全く余裕がないではないか」と嘆いた。一方、私生活での費禕は慎み深く質素で、家に蓄財をすることはなかった。
253年、宴席でしたたかに酔ったところを、魏の降将・郭循に刺殺された。敬侯と諡された。費禕の死後、姜維と陳祗が国政を主導することとなるが、彼の後を継げる人物はおらず、蜀漢は衰退の一途をたどることとなった。