般若寺
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般若寺 | |
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本堂 |
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所在地 | 奈良県奈良市般若寺町221 |
位置 | 北緯34度42分0.22秒 東経135度50分10.38秒 |
山号 | 法性山 |
宗派 | 真言律宗 |
本尊 | 文殊菩薩(重要文化財) |
創建年 | 伝・舒明天皇元年(629年) |
開基 | 伝・慧灌 |
別称 | コスモス寺 |
札所等 | 関西花の寺二十五霊場17番 西国薬師四十九霊場3番 |
文化財 | 楼門(国宝) 十三重石塔、木造文殊菩薩騎獅像ほか(重要文化財) |
般若寺(はんにゃじ)は、奈良市北部・奈良坂(奈良きたまち)に位置する真言律宗の寺院。山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られる。
目次 |
[編集] 歴史
般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきった地点に位置する。般若寺門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、大和(奈良県)と山城(京都府)を結ぶ、古代以来重要な道であった。この道はまた、平城京の東端を南北に通っていた東七坊大路(東大寺と興福寺の境をなす)の延長でもある。
般若寺の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確なところは不明である。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、天平14年(742年)の正倉院文書に般若寺の名が見えることなどから、この寺が奈良時代に存在していたことは確かである。
寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌(えかん)の創建とされ、天平7年(735年)、聖武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したというが、これらを裏付ける確実な史料はない。別の伝承では白雉5年(654年)、蘇我日向臣(そがのひむかのおみ)が孝徳天皇の病気平癒のため創建したともいう(『上宮聖徳法王帝説』裏書)。平安時代に入って、10世紀初め頃には聖宝(しょうぼう、真言宗の僧、醍醐寺の開山)の弟子の観賢(854年-925年)が中興したというが、その後平安時代末頃までの歴史はあまり明らかでない。治承4年(1180年)、平重衡による南都焼き討ちの際には、東大寺、興福寺などとともに般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。
鎌倉時代に入って、般若寺のシンボルとも言える十三重石塔の再建が始められ、僧・良恵(りょうえ)らによって建長5年(1253年)頃までに完成した。その後、西大寺の僧・叡尊によって本尊や伽藍の復興が行われた。叡尊は、西大寺を本山とする真言律宗の宗祖で、日本仏教における戒律の復興に努め、貧者・病者救済などの社会事業を行ったことで知られる。般若寺の位置する奈良市街北方地域は、中世には当時「非人」と呼ばれて差別された病者・貧者などの住む地域であり、般若寺の近くには「北山十八間戸」(きたやまじゅうはちけんと、国の史跡)というハンセン病などの不治の病の人を収容する施設もあった。叡尊は建長7年(1255年)から般若寺本尊文殊菩薩像の造立を始め、文永4年(1267年)に開眼供養が行われた。この文殊像は獅子の上に乗った巨像で、完成までに実に12年を要した。
その後、延徳2年(1490年)の火災、永禄10年(1567年)の松永久秀の兵火によって主要伽藍は焼失。明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けた。近代に入ってからは寺は荒れ果て、無住となって、本山の西大寺が管理していた時代もあったが、第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されている。なお、般若寺の客殿は実業家畠山一清(はたけやまいっせい、1881年-1971年)によって東京都港区白金台に移築され、現在は料亭「般若苑」となっている。
[編集] 伽藍
- 本堂(奈良県指定文化財)-寛文7年(1667年)建立。
- 楼門(国宝)-民家の建ち並ぶ京街道に面し、西面して建つ。入母屋造・本瓦葺きの楼門(2階建て門)、鎌倉時代(13世紀後半)建立。
- 経蔵(重要文化財)
- 鐘楼-元禄7年(1694年)建立。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 楼門
[編集] 重要文化財
- 十三重石塔-高さ12.6メートル。建長5年(1253年)頃に南宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ)により建立された、日本の代表的な石塔の一つ。楼門を入って正面、本堂から見ても南正面に位置し、当寺の信仰の中心となっている。
- 経蔵-鎌倉時代の数少ない経蔵遺構のひとつ。
- 銅造薬師如来立像-奈良国立博物館に寄託。
- 木造文殊菩薩騎獅像-本堂安置。元亨4年(1324年)、慶派仏師・康俊の作。
- 木造寺門扁額-嵯峨天皇の宸筆とされる。奈良国立博物館に寄託。
- 厨子入舎利塔-奈良国立博物館に寄託。
- 紙本墨書叡尊願文-東京国立博物館に寄託。
- 笠塔婆 2基-十三重石塔を建てた伊行末の息子・伊行吉によって建立された石塔婆。現在、本堂手前右側にあるが、当初は寺外の墓地の入口にあった。「考古資料」として重要文化財に指定されている。
- 十三重石塔内納置品 一括-1964年から翌年にかけての十三重石塔解体修理の際に塔内から取り出されたもの。奈良時代の銅造如来立像をはじめ、小仏像、舎利塔、宋版法華経などがある。
[編集] その他の文化財
- 木造四天王立像-本堂安置、室町時代。
- 木造不動明王坐像-本堂安置、江戸時代。
- 石灯籠-本堂前に立つ。鎌倉時代後期の作。
- 唐櫃-鎌倉時代の大般若経の経箱で、南朝の大塔宮護良親王が笠置より吉野へ逃れる際に、身を潜め難を免れたと伝わる。
[編集] 花ごよみ
[編集] アクセス
[編集] 参考文献
- 井上靖、塚本善隆監修、杉浦明平、工藤良任著『古寺巡礼奈良5 般若寺』、淡交社、1979
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』58号(元興寺ほか)、朝日新聞社、1998
- 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館