源重信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
源 重信(みなもと の しげのぶ、延喜22年(922年) - 正暦6年5月8日(995年6月8日))は、平安時代中期の公卿。宇多源氏。宇多天皇の皇孫。敦実親王の五男で、母は藤原時平女。子に致方・道方・宣方・相方・藤原隆家室らがいる。六条左大臣と号した。
承平7年(937年)従四位下に叙位。侍従、左馬頭、美作守、美濃権守、左近衛中将、左兵衛督、修理大夫などを歴任し、天徳4年(960年)参議となり、天禄3年(972年)権中納言、天延3年(975年)中納言、貞元3年(973年)大納言、正暦2年(991年)右大臣、正暦5年(994年)左大臣と累進し、この間に冷泉院別当・近江守・播磨守・伊予権守・治部卿・大蔵卿・中宮(藤原媓子)大夫・皇太后宮(昌子内親王)大夫・按察使・東宮(居貞親王、後の三条天皇)傳などを兼帯した。正暦6年(995年)5月8日、正二位左大臣在職時に薨去。享年74歳だった。没後、正一位を追贈された。
村上天皇にその篤実な性格を愛されたという。男女間の「みそかごとは無才」だったが職務には忠実で、修理大夫時代、自宅と内裏への往復には道を変え必ず内裏を左右から見るようにし、「破れたる所あれば修理」させたという(『大鏡』より)。父敦実親王、兄源雅信と共に音楽に堪能で、朗詠・笛・笙に巧みだったという。