源資通
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源 資通(みなもと の すけみち、寛弘2年(1005年) - 康平3年8月23日(1060年9月20日))は、平安時代後期の歌人。宇多源氏。贈従三位・正四位上修理大夫源済政の子。母は摂津守源頼光の娘。子に政長・師賢・成仲・為忠・忠政・師俊らがいる。
治安2年(1022年)叙爵し、最終官位は従二位参議勘解由長官。康平3年(1060年)8月23日、56歳で死没。
父の済政と同じく管弦の道で名を成し、特に琵琶の名手として名高い。源経信の師。伊勢大輔・菅原孝標女・相模・藤原経衡らと交流していた。「更級日記」には、蔵人頭時代の資通が作者(菅原孝標女)たちと音楽の話を絡ませながら春秋優劣論を語り、斎宮裳着使(万寿2年〈1025年〉11月21日)として伊勢に下向した時の思い出話などを「世の中のあはれなることどもこまやかに」話す風流人として描かれている。「後拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に4首入集。永承4年(1049年)内裏歌合に参加し、祐子内親王家歌合(永承5年〈1050年〉)の講師を務めるなど、歌壇の中心的存在の一人として活躍した。