源資賢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
源 資賢(みなもと の すけかた、永久元年(1113年)-文治4年2月26日(1188年3月25日))は、平安時代末期の公卿・雅楽家。宇多源氏。宮内卿・源有賢の子で、母は備中守・高階為家の女。子に源通家・資時・賢祐らがいた。
笛や和琴の名手で、後白河院の音楽の師であり側近でもあった。諸国の受領や、宮内卿、修理大夫などを歴任。応保元年(1161年)正月従三位に叙せられる。しかし、翌年6月に二条天皇を呪詛した罪で信濃国に流罪になるが、2年後に召還された。その際、後白河院に「田舎住まいで音曲など忘れただろう」という問いに対して、「信濃にあんなる木曽路河」という今様を「信濃に有し木曽路河」と謡い替えた逸話は有名(『十訓抄』『平家物語』などに記載)。仁安元年(1166年)参議に任ぜられる。承安4年(1174年)の今様合において藤原師長とともに判者を務めた。安元元年(1175年)中納言になり按察使を兼任、。治承3年(1179年)権大納言になるが、同年11月の平清盛のクーデター(治承三年の政変)によって解官された。その後、復任して正二位権大納言に至った。寿永元年(1182年)3月20日に出家し、法名を円空とした。文治4年(1188年)、76歳で薨去。
[編集] 官歴
※日付=旧暦
- 11月14日:従五位下(禧子内親王給)
- 正月22日:丹波守
- 12月24日:三河守。左兵衛権佐兼任
- 4月10日:斎院長官
- 長承2年(1133年)(21歳)
- 正月5日:従五位上
- 正月22日:三河守重任。左兵衛権佐如元
- 保延3年(1137年)(25歳)
- 正月5日:正五位下
- 4月16日:左少将
- 12月16日:越中守
- 保延5年(1139年)(27歳)
- 正月5日:従四位下
- 10月26日:従四位上(成勝寺の供養。前斎院・統子内親王御給)
- 正月3日:正四位下
- 正月23日:備後守
- 久安5年(1149年)(37歳)
- 3月18日:上総介
- 11月28日:上総介を辞任
- 保元2年(1157年)(45歳)
- 正月24日:宮内卿
- 保元3年(1158年)(46歳)
- 3月13日:修理大夫。宮内卿を辞任
- 正月27日:従三位。修理大夫如元
- 応保2年(1162年)(50歳)
- 6月2日:解官
- 6月23日:信濃国に配流。除名
- 6月27日:召還
- 6月5日:本位に復す
- 7月15日:参議に補任
- 8月27日:近江権守兼任
- 10月24日:帯剣を許される
- 11月14日:正三位
- 12月30日:権中納言
- 10月19日:従二位
- 承安4年(1174年)(62歳)
- 正月21日:陸奥出羽按察使兼任
- 11月28日:中納言
- 11月29日:陸奥出羽按察使如元
- 安元2年(1176年)(64歳)
- 3月6日:正二位(後白河法皇御給)
- 12月5日:中納言を辞任。陸奥出羽按察使如元
- 4月5日:中納言に還任。陸奥出羽按察使如元
- 治承3年(1179年)(67歳)
- 10月9日:権大納言。陸奥出羽按察使如元
- 11月17日:解官
- 11月18日:畿外追放。丹波国に移住
- 治承4年(1180年)(68歳)
- 7月8日:赦免
- 7月13日:入洛
- 朝参を許される
- 12月4日:権大納言に還任
- 3月8日:権大納言を辞任
- 3月20日:出家