源資時
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源資時(みなもとのすけとき、生没年不詳)は、平安時代末期の官人。宇多源氏。権大納言源資賢の子。母は賀茂神主保文の娘。源通家らは同母兄弟。法名を阿寂といい、上馬入道と号した。右馬頭・正四位下。
『郢曲相承次第』によれば、文治2年(1186年)26歳のときに出家したとあり、逆算すれば応保元年(1161年)の生まれということになる。しかし『尊卑分脈』では年次不明で25歳のときに出家したと記載する。後白河院の近習の一人。諸芸の達人であり、特に和琴や今様の名人として知られた。『平家物語』巻五でも院御所の御遊で和琴を奏でて今様を歌ったという叙述がある。治承3年(1179年)の平清盛のクーデター(治承三年の政変)に、右近衛少将・讃岐守の官を停められたこと、寿永2年(1183年)の平家都落ちの際、平家一門から脱走して鞍馬山に逃れた後白河法皇に随従したことが『平家物語』に見える。音楽の名手だった資時が元暦の清暑堂の御神楽に声が枯れて失態を演じ、出家して右馬入道と名乗って慈鎮和尚の坊官となったこと、『禁秘抄』に「馬の入道正仏」とあることや語り本の書き入れ、江戸時代の歴史家の説によって、『徒然草』にある信濃前司行長が『平家物語』を作って教えて語らせたという生仏がこの資時ではないかと推測する説もあるが、正仏と生仏の文字の相違や、『徒然草』が生仏を東国出身の盲人とするのに対し、資時は東国生まれではないことを指摘して否定する説もある。