来敏
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来敏(らいびん 生没年不詳)は、中国三国時代の蜀の学者。字は敬達。義陽郡新野県の人。
[編集] 経歴
漢の来歙の末裔であり、父の来豔は後漢の霊帝の代に司空にまで昇った。子は来忠。
『蜀書』杜周杜許孟来尹李譙郤伝 - 来敏伝には、
とする記述がある。
また、言葉に節度がなく、何度も免職や格下げにあったとされる。
出陣の前夜を備えた費禕に対して、彼は別れの挨拶と称して囲碁の対局を羨望し、その胆力を試みたという。
97歳で亡くなった。
[編集] 出来事 (年代順)
- 漢末の大乱に遭遇し、姉(黄琬未亡人)について荊州に逃げる。
- 黄琬が劉璋の祖母の甥だったので、姉弟揃って迎えられるのを機に劉璋の賓客となる。
- 劉備の益州平定後、典学校尉となる。
- 太子(劉禅)を立てるに及んで、(太子の)家令となる。
- (劉禅)即位後、虎賁中郎将に任じられる。
- 漢中にいた諸葛亮の要請で、軍祭酒、補軍将軍に就任するが事件にひっかかり職を去る。
- 諸葛亮の死後、成都に戻り、大長秋となるが免職。
- 官に戻り光禄大夫にまで昇進したが、過失を犯し退けられる。
- 官の重さを自覚し自戒するよう執慎将軍に任命される。
- 景耀年間(258年 - 263年間)に97歳で亡くなる。
[編集] 参考書籍
「正史 三国志 5 蜀書」 (陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳) ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7