日本の貿易史
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日本の貿易史(にほんのぼうえきし)では、日本の対外貿易に関する歴史について説明する。
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[編集] 北東アジア地域との接触
[編集] 中国の冊封体制
日本列島は最終氷期が終わったおよそ1万年前にユーラシア大陸から切り離され、以降は外の国や地域との交流を行うさいには海を渡る必要があった。そのため日本は造船・航海技術の発達が見られるまで、文字通り孤島となって近隣地域と隔絶されることになる。古代において東アジアの中心的な位置を占めていたのは早くに文明が起こった中国で、自らが東アジアの中心となり近隣諸国・地域との冊封体制を構築していった。中国が日本を冊封した記録は後漢の時代にまで遡る。その後中国王朝への朝貢は邪馬台国の台与以降は途絶えていた。4世紀後期には倭の五王が南朝への朝貢を再開するも、その後日本は長きにわたり大陸との接触を行っていない。7世紀なって日本は遣隋使を送るようになるが、これは冊封体制のもとではなく、あくまでも対等の関係で行おうとしたものであった。617年に李淵が隋を滅ぼし、翌年に唐を建国した。これをうけて遣隋使は遣唐使と改称され、9世紀前半まで交流が続いた。唐の都の長安は西アジアやインドからの使節や商人が集まる国際都市となり、長安を中心にさまざまな商品や知識が日本を始め東アジア各地に広まっていった。この間日本は新羅との関係が悪化し、朝鮮半島をめぐる地域情勢が不安定になると日本は渤海との交流を深めていった。渤海からは薬用人参や毛皮などが、日本からは絹・綿などの貿易が見られるようになった。894年に遣唐使が廃止され907年に唐が完全に滅んだ後も民間レベルでの交易が続くようになった。
[編集] 宋の出現と武家の台頭
詳細は日宋貿易を参照
875年に起こった黄巣の乱以降、唐は統一中国を治める能力を失い、各地の地方勢力である藩鎮が自立傾向を示し、表向きは唐が滅亡してから70年ほどであった(五代十国時代[1])が、事実上1世紀以上にわたって中国は分裂状態にあった。これを再び統一したのは宋であったが、宋王朝は遼や金などと対立していたことなどから、中国全土に対して強力な支配を行っていたとは必ずしもいえないが、宋のもとで中国の社会が安定し農業や商業が飛躍的に発展したと考えることはできる。一方日本では遣唐使の廃止以降、鴻臚館での貿易は続けられていたものの、一般の宋の商人は博多や敦賀に来航し、民間レベルでの貿易を行っていた。日宋貿易に関心を寄せた平忠盛は独自にこれを活発にし、輸入品を朝廷にもたらして権力を持つようになった。その後平清盛は大輪田泊を改修するなど貿易を振興し、そこから得られる利益をもとに平氏政権を磐石なものにしていった。平氏政権の崩壊後も鎌倉幕府は民間貿易を認め、13世紀の南宋が滅亡する直前まで日宋貿易は続いた。この間日本には絹織物や陶磁器[2]などが輸出され、とくに12世紀中ごろからの宋銭がもたらされたことは日本の貨幣経済制度を促進された。日本からは金や硫黄、日本刀などが輸出されている。
[編集] モンゴルの興亡と室町幕府
詳細は日明貿易を参照
「13世紀はモンゴルの世紀」とも呼ばれ、モンゴルがユーラシア大陸を席巻した。中国においても北部を支配していた女真族王朝の金、金に追われ南部に逃れていた宋を次々と滅ぼし、中国にモンゴル人王朝の元を建てた。元はさらにその支配領域を拡大しようとベトナムや日本にまで手を伸ばす。近隣諸国との関係が悪化する中でも民間や地方ベースでは交易が続けられており、とくに江南地方は経済拡大が続いていたこともあって、その規模はむしろ発展していった。しかし日本では鎌倉幕府が滅び朝廷が分裂する中で治安が悪化、倭寇が出没するようになり貿易船を襲うなど海賊行為が横行し、社会不安や行政機能の停滞などもあって、貿易は円滑なものとはいえなかった。この間に中国では元に替わって明が中国を統一し、対日政策として倭寇対策や朝貢を室町幕府に求めるなどした。足利義満はこれに応じ日本国王に封じられ勘合符を使用して独占的に貿易を行うようになる。応仁の乱後は日明貿易の日本における主導権は大内氏や細川氏、堺や博多の商人に移っていった。また寄港地となった琉球は明に対して独自に朝貢を行っていたが、やがて明からの輸入品を日本や朝鮮などに転売することで巨額の利益を上げていった。16世紀中ごろの大内氏の滅亡で日明貿易は終焉を迎え、明も海禁政策をとるようになっていった。この間明からは永楽通宝や繊維製品が、日本からは銅などの鉱物資源、漆器や屏風などの工芸品が行きかった。また日本に倭寇対策を求めたのは李氏朝鮮も同様で、これを機に両国間で使節派遣が行われるようになり、貿易も盛んになっていった。日本からは銅や工芸品が、朝鮮からは木綿や朝鮮人参が送られていた。しかし室町幕府が求心力を失った後、再び倭寇が出没するようになり、また日朝貿易は一時的に中断した。15世紀中ごろには再び貿易が再開されるも、これは李氏朝鮮が貿易に統制をかけようとした目的があった。16世紀になると日朝関係が悪化し、貿易も衰退の一途を辿った。
[編集] ヨーロッパ人との接触
[編集] ポルトガル人との貿易
詳細は南蛮貿易を参照
ルネッサンス期の16世紀にヨーロッパ人は日本に到着し、極めて日本を賞賛した。マルコポーロが金の寺や宮殿の説明をしていたので、日本は黄金の国と考えられていた。しかし、火山地形による表層の鉱石の豊かさにより、大規模の鉱石発掘がされる前に工業の時代に突入した。日本はこの時代に銅と銀の主輸出国となった。
日本はこの時代、豊富な前工業時代的技術と高い文化を兼ね備えた洗練された封建社会であった。ヨーロッパ諸国よりも人口は多く都市化されていた。 初期に到着したヨーロッパ人たちは日本の職人の技能と金属細工に驚かされた。それは日本は鉄鉱石に乏しいという事実から来る。それゆえ日本人はその限りある資源を職人の技術で有効利用することで有名となった。銅と鉄の品質は世界最高で、その武器は最も鋭く、紙の技術は並ぶ国がなかった。
ヨーロッパ人は南から来たので、日本人は彼らを「南蛮人」と呼んだ。ポルトガルの船(毎年、通常大体小さなサイズの4艘の船)がほとんど中国の商品(絹、磁器)をつんで日本に来ていた。日本人はそれをとても待望していた。しかしながら倭寇を懲罰するために中国皇帝にその貿易は禁止された。それゆえポルトガルはアジアの貿易の仲介役を見つけて貿易した。
1557年ポルトガルがマカオを取得し、中国と正式な貿易パートナーとして認められるとポルトガル国家は日本への貿易を制限しだし、最高落札者に日本との交易を認めた。協議の結果、1艘の1,000-1,500トンのキャラック船(武装商船:大きなジャンク船やガレオン船の2,3倍の大きさ)に毎年排他的に交易する権利が与えられた。この交易は途中中断しながら1638年まで続けられた。キリスト教の司祭を日本に輸入しだした時、その貿易は禁止された。
[編集] オランダ人との貿易
ポルトガルとの交易は次第に中国のジャンク船との貿易に圧迫され、1592年に朱印船貿易が年に約10隻の割合で始まった。1600年からマニラからスペイン船が年に約1隻の割合で到着した。また1600年からオランダが、1613年からイギリスが貿易した。1600年リーフデ号が日本に漂着し、ウィリアム・アダムスがイギリス人として初めて日本に到着した。1605年徳川家康の命でリーフデ号の乗組員の2人がタイのパッターニーのオランダ人に日本と交易するように招待するために送られた。パッターニーのオランダ交易所の所長のVictor Sprinckelは南アジアで敵対するポルトガルとの折合いをつけるのに忙しかったので上陸を拒んだ。しかし、1609年オランダ人のJacques Specxは2艘の船で平戸にたどり着き、ウィリアム・アダムスを通じて家康から貿易許可を戴いた。
江戸時代の始まりは南蛮貿易の終わりと重なり、ヨーロッパ人との経済的、宗教的に交易がある程度の域に達した。江戸時代始めには日本初のヨーロピアンスタイルの遠洋航海用ガレオン船サン・フアン・バウティスタ号(500トン)が日本の支倉常長使節団をのせてヨーロッパ経由でアメリカに航海した。この時代、幕府は350艘の、3本マストの武装交易船の朱印船に許可をだした。山田長政のようにアジアで活躍した冒険家も現れた。その後1638年以降は西洋人としてオランダのみ出島で2世紀に渡り、交易することとなった。
[編集] 鎖国
詳細は鎖国を参照
家康の死後、1616年に徳川秀忠は鎖国政策を開始し、25年後に秀忠の後継の徳川家光により鎖国が完了した。このため既存のイギリス、スペイン、ポルトガルとの交易が途絶え、また民間貿易も禁止された。貿易相手とその交渉の場も限定され、オランダと中国は長崎・出島、朝鮮は対馬、琉球は薩摩、アイヌは松前とされた。長崎における貿易では金、銀、銅が日本から輸出され、また中国に対しては海産品も輸出されている。一方で日本には繊維製品などが輸入されている。その後新井白石により貿易量が制限されるようになるが、田沼意次が政治の中心につくと輸出が奨励されるようになる。
19世紀の中期には江戸は100万人都市となり、京都と大阪は40万人都市となった。江戸は米中心の経済であり、税金の徴収のため表記が米で表された。例えばその土地に米を生産する事が出来なくてもその経済規模を何万石の米相当と判断して其れに課税をした。税率は40パーセントぐらいで他のアジア諸国と比べると格段に高い数値を示している。これにより江戸時代を農民が搾取されていたとする見解がある。が、実は換金作物(大豆、綿、等)には税金がかからず、普通の土地持ちの百姓はそこそこな生活をしていたという見解もある。大名は米を主に税金として集めたが江戸時代は貨幣経済なので何かするときは換金する必要がある。大名は不作時も豊作時も安定した換金が必要となり、1730年に大阪の堂島米会所で世界で初めての先物取引が開始された。いわゆる青田買いである。これは1819年のシカゴ・マーカンタイル取引所(現在の穀物先物取引の世界的中心)の設立より100年以上も前のことである。
[編集] 欧米との再接触
[編集] 開国
詳細は開国を参照
1854年の日米和親条約によりおよそ2世紀にわたる日本の鎖国は解かれた。4年後には日米修好通商条約が締結されるが、この条約によると日本側に関税の自主決定権が与えられていないとされていた。同様の条約は英仏蘭露とも結ばれている。これらの不平等条約は半世紀にわたりその後の明治政府を悩ませることになる。このときの主な貿易品目は、日本からは生糸や茶が輸出され、各国、とくに最大の貿易相手国となったイギリスからは毛織物や綿織物、軍事用の武器やその原材料となる金属が日本に輸出されている。
日米修好通商条約などの通商条約の締結によって諸外国の銀貨が日本国内で使用できることが定められた。当時日本国内で同じ価値の金と銀との交換比率は幕府によって1:5と定められていた。だがこの比率は諸外国にくらべて著しく金が割安であり、諸外国ではおおむね1:15の交換比率が成立していた。このため外国商人は日本へ銀を持ち込んで、金と交換し、上海などで再度銀と交換するだけで巨利を得ることができた。こうして大量の金貨(小判)が日本から流出した。幕府は1860年に金の含有量を3分の1に圧縮した万延小判を発行し、ようやく金の流出を止めることができた。ところが、正貨の貨幣価値が3分の1に下落したこと、また諸外国との貿易の開始によって国内産品が輸出に向けられたことによって、幕末期の日本経済はインフレーションにみまわれた。
[編集] 殖産興業
詳細は殖産興業を参照
江戸幕府から政権を引き継いだ明治政府が直面した課題は、貿易による外貨獲得と不平等条約の改正であった。1870年(明治3年)政府は工部省を設置、また技術導入のためにお雇い外国人を多数採用し、殖産興業推進のため、鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台など産業振興と産業インフラ整備のための幅広い事業を推進した。
当時の日本にとって輸出品として期待された産品は茶と生糸であった。だが繭から生糸をつくる製糸工程は前近代的な技術に依存していた。このため、近代的な技術を導入した製糸工場を稼動させ、生産量、品質ともに高めていくことが必要であると考えられた。政府はフランスから技術を導入し、群馬県の富岡市に日本初の器械製糸工場である富岡製糸場を設置した。富岡製糸場の製品はアメリカ合衆国などへ輸出されて高い評価を受け、また後に日本全国に建設された製糸工場に技術を伝授する役割も果たした。
[編集] 条約改正
詳細は条約改正を参照