後梁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に、唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の昭宣帝に禅譲させて建国した。都は開封。中国では、南北朝時代の後梁(西梁)と区別して朱梁とも呼ぶ。
朱全忠が唐を滅ぼしたとき、晋王李克用ら唐末の混乱に乗じて地方で自立していた軍閥(節度使)が後梁の受禅を認めずに各地で自立したため、五代十国の分裂時代が到来した。
太祖朱全忠は912年、病床にあって養子の博王朱友文を後嗣に立てようとしたため、実子の郢王朱友珪によって殺された。帝位についた朱友珪は人望を得ず、弟の均王朱友貞に殺されて帝位を奪われた。しかし、朱友貞も後唐の荘宗(李克用の子、李存勗)との戦いに敗れて殺され、後梁は滅んだ。こうして後梁の皇帝はみな中道に倒れ、3代16年の短命に終わった。
[編集] 後梁の皇帝
朱信━朱誠┳朱全昱[広王]┳朱友諒[広王] ┃ ┣朱友能[恵王] ┃ ┗朱友誨[邵王] ┣朱存[朗王]┳朱友寧[安王] ┃ ┗朱友倫[密王] ┃1 ┗太祖(朱全忠)┳朱友裕[彬王] ┃2 ┣朱友珪[郢王] ┃3 ┣末帝(朱友貞) ┣朱友璋[福王] ┣朱友雍[賀王] ┣朱友徽[建王] ┣朱友敬[康王] ├朱友文[博王] ├朱友謙[冀王] ├朱友恭 └朱友讓 ━実子 ─養子(仮子)