携王 (周)
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携王(けいおう、? - 紀元前759年、在位:紀元前772年 - 紀元前759年)は、古代中国周王朝第12代幽王の子。名は不詳。詳しい出自も一切明らかではない。
[編集] 周の東西分裂
紀元前772年(従来の771年説も根強い)、異民族犬戎(けんじゅう)出身の申皇后の冷遇に反感を持った父申侯はその犬戎と共に軍を率いて周都鎬京を攻め、娘婿の幽王を敗死させた。
竹書紀年によれば、混乱に陥った周の首脳や諸侯は個々の思惑を持ちつつ、幽王の子平王と携王のそれぞれの陣営に分かれて、周朝立て直しの大義名分の下争った。
すなわち平王派は東の洛邑で幽王の元太子・宜臼を平王として即位させ、鎬京で携王は即位した。ただこの混乱・危険状況のなかでどうやって携王勢力が鎬京で陣営を張ったか、その過程は史書には見えない。史上かつてない同族による政権並立状況となった。
そして十数年の政争の下、紀元前759(平王14年)年、平王は携王勢力を打倒し、携王もその過程で殺された。戦禍で荒廃した鎬京は、以後秦の都になるまでしばらく表舞台から去ることとなり、周の政治の舞台は東の洛邑となった。これを周の東遷といい、それまでを西周、これ以降を東周と呼んで時代を区別している。
こうして周は再統一をなしたわけだが、周朝自身の力によるものではなく、配下の諸侯によるものだと内外に露見した格好となった。
[編集] 下克上社会の明確化
その平王の孫、14代桓王はその流れを止めようと、かつて幽王を守り死んだ鄭の桓公の孫・荘公に軍事遠征をかけたが撃退されてしまい、皮肉にもかつての懐刀にも見下され、周朝衰微を止められず拍車をかける形となってしまった。
周の分裂により、周室の権威失墜が明らかとなったと同時に、西周以来の諸侯で没落する者も続出したが、一方で平王を護衛した新興国の秦のように新たに生まれた諸侯もあった。この事件は、諸侯の淘汰・再編の流れ、また周朝からの諸侯の更なる自立をもたらした、歴史的にも重要な意義をもつ。