彭宣
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彭宣(ほうせん、? - 4年)は、前漢の人。字は子佩。淮陽国陽夏の人。
[編集] 略歴
易経を張禹より学び、推挙されて博士となり、東平王の太傅となった。後に張禹が成帝の師匠として尊ばれるようになると、張禹は彭宣は政治を任せられると推薦したため、永始3年(紀元前14年)に右扶風となり、翌年には廷尉に遷った。しかし元延2年(紀元前11年)に諸侯王国の人間は長安にいるべきでないという理由で太原太守に出された。
綏和元年(紀元前8年)に呼び戻されて大司農となり、翌年に光禄勲に遷り、同年、哀帝即位後に右将軍となった。
翌建平元年(紀元前6年)には左将軍となるが、その翌年、息子と淮陽王の娘が結婚していたことが、諸侯王国の人間は高い地位や兵権を持つ地位におるべきではないという制度に背いているとして罷免された。その後、諌大夫鮑宣が彭宣を推薦したため、哀帝は元寿元年(紀元前2年)に彭宣を召し出して光禄大夫とし、次いで御史大夫とした。翌元寿2年(紀元前1年)、哀帝は三公を復活させ、御史大夫を大司空と改称し、大司空彭宣を長平侯に封じた。
その年、哀帝が死亡して王莽が大司馬となり権力を握ると、彭宣は老年を理由に引退を申し出、認められて解任された。しかし王莽は自分が権力を握ると引退したことを恨みに思い、引退する際に賜う金や馬車を彭宣には与えなかった。
彭宣は元始4年(4年)に死亡し、頃侯と諡された。長平侯は孫の代まで続いたが王莽が敗れると断絶した。