岩城宣隆
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岩城 宣隆〈多賀谷 宣家〉(いわき のぶたか〈たがや のぶいえ〉、天正12年(1584年) - 寛文12年8月27日(1672年10月17日))は、江戸時代の大名。出羽亀田藩の第2代藩主。佐竹義重の四男。母は伊達晴宗の娘。正室は多賀谷重経の娘、継室は真田信繁(幸村)の娘・顕性院。子は岩城重隆(長男)、岩城隆家(次男)。官位は従五位下、但馬守。幼名は彦太郎。佐竹義宣、岩城貞隆、蘆名義広の弟である。
はじめは多賀谷重経の養嗣子となり、多賀谷宣家と名乗っていたが、関ヶ原の戦いで多賀谷氏が滅亡したため、佐竹氏に戻った。寛永5年(1628年)8月に先代藩主の岩城吉隆が本家の義宣の養嗣子となったため、その後を継いで藩主となる。寛永11年(1634年)に宣隆と改名している。検地を行うなどして藩政の基礎を固め、明暦2年(1656年)7月25日に家督を嫡子・重隆に譲って隠居した。寛文12年(1672年)8月27日、89歳の長寿をもって死去。法号:円通院月宮観心。墓所:秋田県由利本荘市岩城(旧由利郡岩城町)の竜門寺。
当時、甥から叔父への継承はあまり歓迎される(下から上への継承のため)ものではなかったため、史書においては宣隆は藩主ではなく番代(代つなぎ)の存在ともされている。
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