佐竹義隆
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佐竹 義隆〈岩城 吉隆〉(さたけ よしたか〈いわき よしたか〉、1609年2月18日(慶長14年1月14日) - 1672年1月4日(寛文11年12月5日))は、佐竹氏二十代当主であり、久保田藩二代藩主。亀田藩岩城氏の当主となった時期もある。岩城忠次郎貞隆の長男。母は相馬義胤の娘。初名は岩城吉隆。幼名は能化丸。通称は平次郎、四郎次郎。官位は従四位下左少将、修理大夫。
1620年(元和6年)実父貞隆の死去により、家督を相続する。遺領である信濃中村1万石を支配した。1622年(元和8年)出羽国由利郡内で1万石の加増を受けた。1623年(元和9年)11月中村の領地を収公、由利郡に替地を与えられた。それにともなって、出羽由利郡亀田村に陣屋を移転した。1624年(寛永元年)12月29日従五位下修理大夫に叙任する。
1626年(寛永3年)4月2日伯父に当たる久保田藩主佐竹義宣の養子になる。養父義宣の養嗣子義直(実は吉隆の祖父である佐竹義重の死後に生まれた義重の庶子)の廃嫡のためである。以後、佐竹義隆と名乗る。同年4月27日徳川秀忠・家光父子に御目見した。同年8月29日従四位下侍従に昇進する。
1630年(寛永7年)11月幕府からなかなか隠居を許可されない養父義宣は、義隆に対して部屋住料5万石を与えようとするものの、従来のままで構わないとして辞退する。1633年(寛永10年)2月26日養父義宣の死去により、家督を相続する。同年5月8日藩主として初めて帰国の許可を得る。1666年(寛文6年)12月28日少将に昇進する。1671年(寛文11年)12月5日久保田城において死去、享年63。
正室は佐竹義章の娘光聚院。子は、長男・佐竹義寘(久保田新田藩始祖)、次男・佐竹義処(久保田藩主)、三男・佐竹義慰、四男・佐竹義長(久保田新田藩(岩崎藩主))、娘(黒田長興正室)がいる。
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