山口城 (武蔵国)
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山口城 (埼玉県) |
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通称 | 児泉城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 山口家継 |
築城年 | 平安時代末頃か? |
主な改修者 | 山口高忠 |
主な城主 | 山口氏 |
廃城年 | 1590年頃 |
遺構 | 土塁・空堀の一部 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | なし |
山口城(やまぐちじょう)は、埼玉県所沢市山口にあった城。狭山丘陵の標高79m~90mの南斜面に所在し、南麓部は柳瀬川が流れている。
目次 |
[編集] 歴史・沿革
平安時代末期に武蔵七党村山党の山口家継によって築城された。以来代々山口氏の居城となる。
南北朝時代の応安元年(1368年)新田義宗、脇屋義治の挙兵に呼応した武蔵平一揆のおり、山口高清は一揆の中心・河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城。
その後永徳3年(1383年)、南朝の力を得た高清の子山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。
高治の子山口高忠は上杉氏家臣で武蔵国守護代の大石氏に従い、山口城の大改修を行ったが、もともと館であったため別個に勝楽寺村に根古屋城を築き、山口城の城郭としての機能を根古屋城に移した。
その後山口氏は上杉氏が没落すると、後北条氏に仕え武蔵国入間郡山口(所沢市山口)に40貫を知行していたが、1590年、小田原合戦で敗戦。廃城になった。
[編集] 考古資料
[編集] 遺構
現在ファッション市場サンキ所沢店の敷地となっており、遺構は道路と西武狭山線の線路沿いにわずかに残る土塁と空堀のみである。