小野喬
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小野喬 | |
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生誕 | 1931年7月26日(76歳) 日本 秋田県能代市 |
職業 | 日本スポーツクラブ協会名誉顧問 |
オリンピック | ||
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男子 体操 | ||
金 | 1956 | 男子 鉄棒 |
金 | 1960 | 男子 鉄棒 |
金 | 1960 | 男子 跳馬 |
金 | 1960 | 男子 団体総合 |
金 | 1964 | 男子 団体総合 |
銀 | 1956 | 男子 あん馬 |
銀 | 1956 | 男子 個人総合 |
銀 | 1956 | 男子 団体総合 |
銀 | 1960 | 男子 個人総合 |
銅 | 1952 | 男子 跳馬 |
銅 | 1956 | 男子 平行棒 |
銅 | 1960 | 男子 つり輪 |
銅 | 1960 | 男子 平行棒 |
小野 喬(おの たかし、1931年(昭和6年)7月26日-)は、体操競技の元オリンピック選手で、元鹿屋体育大学教授。秋田県能代市生まれ。現役時代は「鬼に金棒、小野に鉄棒」と呼ばれたことで知られる。
[編集] 経歴・人物
大学3年の時にヘルシンキオリンピックに出場し跳馬で体操競技では日本で初となる銅メダルを獲得。メルボルンオリンピックでは鉄棒で体操競技で日本人最初の金メダリストとなる。ローマオリンピックでは初の団体総合優勝に貢献、鉄棒で連覇のほかに跳馬でも金メダルを獲得し、日本の男子体操黄金時代の礎を築いた。一方、個人総合ではメルボルン大会はヴィクトル・チュカリン、ローマ大会はボリス・シャハリンと、いずれもソビエト連邦の選手に0.05点の僅差で敗れ、金メダルに手が届かなかった(日本選手の個人総合優勝は、東京大会で遠藤幸雄が実現することになる)。
1964年の東京オリンピックでは日本選手団主将に指名され、開会式では選手宣誓を勤めた。すでに選手としてはピークを過ぎており、本番では大会前に痛めた肩に麻酔の注射を打って演技に臨んだが、団体総合の一員として金メダルを授与されている(ただし、チームで一個のメダルしか与えられなかったため、メダルの現物は小野の手には渡らなかった)。
小野は日本のオリンピック選手としては初めて夏季大会に4大会連続で代表に選ばれて出場した選手である(他に4大会連続は三宅義信・山本博・谷亮子の3人)。また、その4つの大会すべてでメダリストとなっているのは日本では小野と谷亮子の2人だけである。獲得したメダルの総数13個は、加藤沢男(日本人最多金メダリスト)らを抑えて2008年現在も日本人最多となっている。
現在は日本スポーツクラブ協会名誉顧問。
妻は同郷、同窓の体操競技のオリンピックメダリストでもあり、参議院議員、国家公安委員会委員長を務めた小野清子である。清子夫人とは東京オリンピックの前に結婚しており、東京オリンピックでは夫婦揃ってメダリストとなった。
[編集] 成績
- 1952年 全日本選手権 個人総合優勝
- 1952年7月 ヘルシンキオリンピック(フィンランド) 跳馬銅メダル、団体総合5位、徒手4位
- 1953年 全日本選手権 個人総合優勝
- 1954年 全日本選手権 あん馬優勝
- 1955年 全日本選手権 つり輪、鉄棒優勝
- 1956年 全日本選手権 個人総合、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒優勝
- 1956年6月 メルボルンオリンピック(オーストラリア) 鉄棒金メダル、団体総合、個人総合、あん馬銀メダル、平行棒銅メダル、つり輪5位
- 1957年 全日本選手権 個人総合、鉄棒優勝
- 1958年 全日本選手権 個人総合、徒手、鞍馬、跳馬、鉄棒優勝
- 1959年 全日本選手権 個人総合、あん馬、跳馬、平行棒、鉄棒優勝
- 1960年 全日本選手権 個人総合、跳馬、平行棒、鉄棒優勝
- 1960年 ローマオリンピック (イタリア) 団体総合、鉄棒、跳馬金メダル、個人総合銀メダル、平行棒、つり輪銅メダル、ゆか4位、あん馬6位
- 1961年 全日本選手権 平行棒、鉄棒優勝
- 1962年 全日本選手権 あん馬優勝
- 1962年 世界選手権(チェコプラハ) 団体総合、鉄棒金メダル、個人総合4位、ゆか、跳馬、平行棒5位
- 1963年 全日本選手権 鉄棒優勝
- 1964年10月 東京オリンピック 団体総合金メダル、個人総合11位、鉄棒6位