大沼哲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
交響曲 - ピアノ協奏曲 |
ピアノソナタ |
ヴァイオリン協奏曲 |
ヴァイオリンソナタ |
弦楽四重奏曲 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
イベント |
音楽祭 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
大沼 哲(おおぬま さとる、1889年6月17日 - 1944年10月18日)は、山形県米沢市出身の日本陸軍軍人、作曲家である。
目次 |
[編集] 生涯
1889年に小学校校長を勤める音楽好きな父の家に生まれるが、7歳のころ生家の大滝家を離れ親戚の大沼家の養子となる。米沢工業学校を卒業後に音楽への思い止みがたく上京して、1907年陸軍戸山学校に入校。同校を首席で卒業し銀時計を授与される(俗に言う「銀時計組」)。1912年に戸山学校軍楽隊を中心とする選抜メンバーでイギリス演奏旅行する際、メンバーに選ばれず永井建子の留守居役を命じられたことに発奮し、フランス語を習得した。また武井守成のマンドリン合奏団『オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ』で指揮者としての活動も行った。
戸山学校軍楽隊在勤中の1925年にフランスへ作曲を学ぶために留学。スコラ・カントルムで学び、ヴァンサン・ダンディに師事する。その後欧米各地を回り1927年に帰国、同軍楽隊隊長を経て南方軍総司令部軍楽隊隊長となった。1943年に陸軍軍楽隊では初めて少佐に昇進した。1944年10月、アメリカ軍の攻撃を避けるため南方軍総司令部がマニラからサイゴンに下がる際同行したが、フィリピン沖で輸送船白鹿丸が撃沈され隊員28名とともに戦死。生存者の目撃談によれば、大沼は白鹿丸の沈没後ドラム缶を縛った俄か筏の上に乗り、海に浮かぶ隊員を集めたり激励していたという。しかし、同日は悪天候で大時化の状態であり、全員波に呑まれて戦死したものと言われている。
大沼の功績としては、フランス式喇叭鼓隊の導入と戸山学校においてのソルフェージュ導入による音程教育が挙げられる。また、作曲の才能は山田耕筰がライヴァル視して警戒するほど高かったと言われている。
[編集] 主な作品
[編集] 管弦楽曲
- 交響曲『平和』(1923年)(焼失)
- 『マルシュ・オマージュ』(1927年、1925年の吹奏楽版の編曲)
- 『鎮守祭』
- 『子猫』
- 『可憐な乙女』
[編集] 軍楽・軍歌・戦時歌謡
- 『奉祝前奏曲』(1924年)
- 『立派な兵隊』(1924年、戦後は『立派な青年』と改題して演奏される。)
- 『誓忠行進曲』(1925年)
- 『陸軍行進曲・その2』(本間雅晴作詞。その1(巌谷小波作詞・佐藤長助作曲)もある)
- 『少年戦車兵の歌』
- 『戦車の進撃』
- 『機甲団の歌』
- 『青年マーチ』
- 『進む日の丸』
- 『大歓喜』
- 『伸び行く日本』
- 『ツラン民族』
[編集] マンドリンオーケストラのための音楽
[編集] 編曲
- 『靴が鳴る』(原曲・弘田龍太郎「靴が鳴る」)
- 『敵は幾万』(原曲・小山作之助「敵は幾万」)
- 『昭和の子供』(原曲・佐々木すぐる「昭和の子供」)
- 『出征兵士を送る歌』(原曲・林伊佐緒「出征兵士を送る歌」)
[編集] 教え子
- 石田一郎
- 平尾貴四男
[編集] 参考文献
- 山口常光『陸軍軍楽隊史 - 吹奏楽物語り』三青社、1968年。
- 宮内孝子『作曲家 大沼哲の生涯 -日本のオーケストラ黎明・胎動期を偲ぶ-』音楽之友社、1993年。