大島信雄
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大島 信雄(おおしま のぶお、1921年10月2日 - 2005年1月8日)は、愛知県[1]出身の元プロ野球選手で投手。左投げ左打ち。
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[編集] 来歴・人物
愛知県一宮市[2]生まれ。岐阜商業学校-慶應義塾大学-大塚産業から1950年に松竹ロビンスに入団。年齢は29歳と遅いプロ入りとなった。左腕から繰り出される、速球や、縦に落ちるカーブを武器に活躍し、1年目で20勝4敗、防御率2.03を記録し、当時活躍していた藤本英雄を抑えて、セリーグ初の最優秀防御率、新人王のタイトルに輝き、2リーグ分立後の初のリーグ優勝にも貢献した。なお、29歳での新人王獲得は史上最年長であり、この記録は半世紀以上経った今日に至るまで破られていない。同年の毎日オリオンズとの第1回日本シリーズでは第1戦(神宮球場、松竹のホームゲーム扱い)に先発投手として登板、記念すべき日本シリーズ第1球を投じている。しかし、毎日・若林忠志(当時42歳)との“合計71歳対決”で延長12回を投げ合ったものの、2-3で惜敗しシリーズ敗戦投手第1号にもなる。1952年に名古屋ドラゴンズへ移籍。1953年に12勝を挙げ、4年連続2桁勝利を記録する。しかし翌年からは、成績が落ち1955年に引退。その後は中日スポーツや毎日放送、東海ラジオ、東京12チャンネル(現・テレビ東京)などで野球解説者として活躍し、その間多くの少年野球向けの野球教本を著したことでも知られる。また、慶大の大先輩である水原茂の中日監督時代には水原の下でコーチを務め、松本幸行、大島康徳らを育てている。球界引退後は、愛知の後輩であるイチロー(マリナーズ)見たさにシアトルまで足を運ぶなど、80歳を過ぎてもなお精力的に野球に関係する活動を行っていた。2005年1月8日に肺炎のために死去。享年83。
[編集] 背番号
- 16 (1950年~1955年)
[編集] 年度別投手成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四 球 |
勝利 | 敗北 | 投球回 | 被安打 | 被本 塁打 |
与四 死球 |
奪三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1950年 | 松竹 | 34 | 13 | 5 | 1 | 20 | 4 | 225.1 | 197 | 9 | 76 | 70 | 51 | 2.03(1) |
1951年 | 36 | 13 | 2 | 1 | 15 | 13 | 216.2 | 211 | 13 | 58 | 61 | 66 | 2.74(6) | |
1952年 | 名古屋 中日 |
35 | 8 | 4 | 1 | 12 | 11 | 194.2 | 171 | 8 | 64 | 57 | 61 | 2.82(8) |
1953年 | 37 | 4 | 1 | 2 | 12 | 9 | 159.1 | 174 | 8 | 46 | 48 | 68 | 3.83 | |
1954年 | 18 | 3 | 2 | 0 | 5 | 3 | 83.1 | 82 | 3 | 23 | 35 | 25 | 2.68 | |
1955年 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 8 | 2 | 3 | 2 | 6 | 10.80 | |
通算成績 | 162 | 41 | 14 | 5 | 64 | 41 | 884.1 | 843 | 43 | 270 | 273 | 277 | 2.82 |
[編集] 脚注
- ^ 死亡記事の抜粋。大島信雄氏(おおしま・のぶお=元プロ野球松竹、中日投手)8日午後3時22分、肺炎のため東京都目黒区の病院で死去、83歳。愛知県出身。
- ^ 大島 信雄。大正10年尾張一宮に生まれる。「ぼくらの野球・ルール入門」 (ジュニアライブラリー) (単行本) 成美堂出版の著者紹介
[編集] 関連項目
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