呂産
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呂産(りょさん、?-紀元前180年)は、前漢の人。劉邦の妻である呂后(呂雉)の一族で、呂氏が権力を握った時代に呂王、相国となった。
[編集] 略歴
呂后の兄、呂沢の子である。呂沢は劉邦に従い、高祖2年(紀元前205年)に劉邦が項羽に敗れた際に劉邦は呂沢の軍に逃げ込んでいる。
呂沢は高祖6年(紀元前201年)に周呂侯に封じられ、3年後死亡した。呂沢は恵帝の時代に令武侯と諡された。周呂侯は子の呂台(呂産の兄)が継いだ。
高祖劉邦の後を継いで皇帝となった恵帝が紀元前188年に死亡すると、残された母の呂后は陳平ら功臣を恐れて不安になっていた。陳平らは呂台、呂産、呂禄ら呂氏に南北軍の軍権を持たせるよう進言し、呂后の気持ちを和らげた。
呂后元年(紀元前187年)に呂産は汶侯に封じられた。この年、呂后は呂氏を王にしようと考え、まず呂産の父呂沢を悼武王と追尊し、次いで大臣に呂台を王に封じるよう進言させ、呂台を呂王に封じた。
呂后6年(紀元前182年)、呂王呂台の後を継いだ呂嘉が廃位されると、代わって呂産が呂王に立てられた。翌年、劉邦の子である梁王劉恢を趙王に遷すと、呂産を梁王とした。また、呂産の娘を趙王劉恢の妻とした。呂産は梁王になっても封国には行かず、長安にいて皇帝(少帝弘)の太傅となった。
呂后8年(紀元前180年)、呂后が死亡すると呂産は相国となった。斉王劉襄が反乱すると呂産は灌嬰を鎮圧のため派遣したが、灌嬰は滎陽から進軍しなかった。陳平らに欺かれた呂禄は軍権を返上して封国へ行けば大臣や諸侯の疑いが解けると言ったが、斉の郎中令賈寿が反対し、呂産に早く宮殿に入ることを勧めた。
その間に呂禄は北軍の指揮権を周勃に奪われ、呂産も衛尉に宮殿へ入ることを止められた。呂産は兵千人を率いた朱虚侯劉章に追われ、郎中令府の厠の中で殺された。呂産を失った呂氏は一気に殲滅され、代王劉恒(文帝)が皇帝に擁立された。
[編集] 参考文献
巻9呂太后本紀
巻18外戚恩沢侯表