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司馬昭 - Wikipedia

司馬昭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

司馬昭 (左は司馬攸)
司馬昭 (左は司馬攸)

司馬昭(しばしょう 太祖文帝 211年 - 265年)は、姓を司馬、名を昭、を子上(三国志演義では子尚)と言い、三国時代武将政治家司馬懿の息子であり、司馬師の弟、の開祖司馬炎・司馬定国・司馬攸・司馬兆・司馬広徳・司馬鑒・司馬機・司馬永祚・司馬延祚らの父。晋代に太祖文帝と追号される。

目次

[編集] 年譜

255年 兄・司馬師が子を儲けないまま亡くなったので家督を継承した。

256年 大都督になる。寿春で諸葛誕が反乱を起こしたのでこれを鎮圧する( - 258年)。

258年 この年より、相国・晋に封じられ、九錫を賜るがこれを辞退することが繰り返される。簒奪の準備段階として、世論の瀬踏みをしているのである。

260年 皇帝(高貴郷公曹髦)が司馬昭に対して刃向かったのでこれを殺した。殺害を命じた賈充はお咎めなく、実行犯の成済と成倅兄弟を誅殺した。また、曹髦に挙兵を打ち明けられ、唯一密告に来なかった王経も誅殺した。その後継者として元帝曹奐を皇帝に据える。この直前、2度目の相国・晋公・九錫の下賜があったが、やはり時期尚早とみて辞退した。

263年 鄧艾鍾会を征蜀に赴かせ、蜀漢を滅ぼす。ここで6度目にして相国・晋公となり、九錫を受けた。

264年 晋王になる。

265年 、中風の為に56歳で逝去。この時は文王と諡された。司馬昭は、兄・司馬師の養子になっていた三男の司馬攸に晋王を譲ろうとしたが、周囲の反対もあり長男の司馬炎が跡を継ぐことになる。

[編集] 評価

兄とともに数多くの陰謀・政争を主導し、魏を簒奪する足場を固めたことから、陰謀家として非難されることが多い。また、司馬昭の側も批判に敏感に反応し、曹氏による反撃を警戒していた。竹林の七賢の一人である嵆康が殺害されたのも、彼の夫人が曹操の曾孫に当たっていたことを警戒してのこととされる。さらに、皇帝殺害にも実質的に係わった。

世説新語』によると、東晋明帝王導から簒奪のいきさつを知り、顔を覆って「もし公の言った通りなら、どうして(晋の)皇祚を長く保つことができようか」と言ったという。また桓温は、閑居しているとき己の生活を顧みて「わしは芳名を残すこともできず、かといって景文の臭も残せんのか。」と嘆息したという逸話が残る。

その一方で、簒奪を成功させた理由についても分析されている。諸葛誕らの反乱を鎮圧した事後処理で、首謀者を処刑しただけで、他は全て赦免した。また、より派遣された諸葛誕の援軍で捕虜となった者もみな赦免した。習鑿歯は「これ以降、天下の人は(司馬昭の)武威を恐れると同時に徳義を慕うことになった」と評価している。ただし、習鑿歯の説は裴松之のしばしば批判するところである。

また、正史の注『襄陽記』(これも習鑿歯の著)によると、263年の蜀漢攻撃について、呉では司馬昭が人々がまだ心服していないのに遠くに出兵したから失敗するだろうとの意見が多かった。しかし張悌は言った。「曹操の功績は確かに世界を震わせたが、民はその威勢を恐れても、心従したわけではない。曹丕曹叡も、そのやり方を引き継いだ。彼等が民心を失って久しい。司馬懿父子は政権を掌握すると、しばしば功を立て、政治の煩雑さと過酷さを除いているので、民が司馬氏に心を寄せるのだ。淮南で三度(王淩毌丘倹文欽・諸葛誕)反乱が起きても、曹髦の死でも四方は動揺しなかった。敵は容赦なく排除し、賢者を取り立てて本領を発揮させ、智勇を兼備していなければ、このようなことはできない。 その威武は広がり、人々の気持ちもなびくから、簒奪という奸計も成算が立つのだ。」その司馬氏が民衆の疲弊している蜀漢に攻め込むのだから勝利は確実だし、たとえ負けても致命傷にはならないだろうと主張した。呉の人々は張悌を笑ったが、結局その通りになったという。

もっとも、この記述を以て、天下の心が司馬氏に帰していたとするわけにはいかない。司馬師、司馬昭が実権を握っていた時代というのは一種の恐怖政治に近く、『晋書』阮籍伝に「魏晋之際、天下故多く、名士の全うする者の有るは少なし」とあるがごとく、片言隻語で三族が誅殺される時代であった。魏末から清談が流行したのも、政治批判をすれば首が飛ぶため、政治に関心がないことを装わざるを得なかったのが、一つの要因である。

また、司馬氏も政治批判を徹底的にマークしたため、人々が政治に対して沈黙する一方、密告や讒訴が相次ぎ、これを利用して政敵を陥れる事件も後を絶たず、政治的な混乱も続いた。このため、世論はますます現実逃避、政治的無気力を是とする方向へ動き、晋代になると深刻な政治的停滞を生み出すに至る。

[編集] ことわざ

260年、司馬昭打倒の兵を挙げようとした曹髦は、諫める王経らに憤慨して「司馬昭の心は、路傍の人も皆知っている(司馬昭之心、路人皆知)。吾は座して廃位の辱めを受けることはできない」と言った。

この言葉は現在の中国では「顔に書いている」「みんなお見通し」という意味で日常的に使用される。

[編集] 宗室

[編集] 后妃

  • 皇后・王元姫(王粛の娘)

その他に数人の側室がいる。

[編集] 子女

  1. 武帝・司馬炎
  2. 遼東悼恵王・司馬定国
  3. 斉献王・司馬攸(伯父・司馬師の猶子になる)
  4. 城陽哀王・司馬兆
  5. 広漢殤王・司馬広徳
  6. 楽安平王・司馬鑒
  7. 燕王・司馬機
  8. 司馬永祚
  9. 楽平王・司馬延祚
    • 京兆長公主(平原侯・甄悳の夫人の従姉(司馬師の娘)が亡くなり、その後妻に)


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