台場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
台場(だいば)とは、幕末に異国船の襲来に備えて設置された砲台で、要塞の一種である。日本各地の海岸に築かれた。
目次 |
[編集] 著名な台場
- 幕府のお台場
- 各藩のお台場
この他、
など数多くのお台場が建設された。
[編集] 品川台場
品川台場(品海砲台)は、幕末に品川沖に建設された台場である。2008年現在の地名でいえば品川からレインボーブリッジの東端付近に広がっていた。前面に第一から第三台場。そのやや後方に御殿山下台場および第四から第七台場が作られた[1]。御殿山下台場以外は海上砲台である。台場は石垣で囲まれた正方形や五角形の洋式砲台であり、十字砲火に対応している。敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくするのである。現在は第三台場(台場公園)と、その西に浮かぶ第六台場が残されている。
第一台場の規模は、六角形の丘陵を成し、平坪1万981坪余、80ポンド砲10挺・24ポンド砲2挺・12ポンド砲12挺・長臼砲4挺の大小砲を備え、火薬庫・倉庫・仮営舎などの設備があった。以下、五砲台はほぼ同じであった。
[編集] 歴史
[編集] 江戸時代
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫る。これに脅威を感じた幕府は、江戸の直接防衛のために伊豆代官の江川太郎左衛門に命じて、洋式の海上砲台を建設させる。工事は急ピッチで進められ、砲台は翌1854年にペリーが2度目の来航をするまでに一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれた。
ペリー艦隊は品川沖まできたが、この砲台のおかげで横浜まで引き返し、そこでペリーが上陸することになった。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせたが、結局この砲台は一度も火を噴くことなく開国することとなった。
[編集] 明治時代
- 明治8年(1875年)、海上の7つの台場が陸軍省の所管となる。明治中期には東京湾要塞の建設が始まったこともあって台場の重要性が減り、以後徐々に払い下げられることとなる。
- 明治11年(1878年)、芝区の成立にともない、海上の7つの台場(第一~第七台場)は芝区に所属し、それぞれ東京府芝区大字品川沖1~7番地となる。大正の初めまでに町名の品川沖は品海砲台に変更となる(詳しい時期は不明)。
[編集] 大正・昭和
- 大正元年(1912年)、第四台場が民間人に払い下げられ、造船所となる。
- 大正4年(1915年)、第三・第六台場が東京市に払い下げられ、史跡公園として整備されることになる。
- 大正6年(1917年)、第一台場が民間人に払い下げられる。
- 昭和3年(1928年)、第三台場が東京市により整備され、台場公園として市民に開放される。
- 昭和9年(1934年)、第二・第五台場が東京市に払い下げられる。
- 昭和14年(1939年)、第四台場が新しく完成した埋立地(品川区天王洲町・現在の品川区東品川)に埋没して消滅する。
- 昭和16年(1941年)、東京港が開港する。
- 昭和22年(1947年)3月15日、芝区・麻布区・赤坂区が合併して港区が成立し、台場地区は東京都港区芝品海砲台となる。
- 昭和30年(1955年)、品川区と地続きになっていた旧第四台場の土地が、港区より品川区に割譲される。
- 昭和32年(1957年)、8つの台場のうち唯一陸上に造られた御殿山下台場が撤去され、跡地に品川区立台場小学校が開校する。
- 昭和36年(1961年)、東京港の開港に伴い船舶が増加したため、航路を塞ぐ形で浮かぶ第二台場が撤去される。
- 昭和37年(1962年)、第五台場が新しく完成した埋立地(港区品川埠頭・現在の港区港南)に埋没して消滅する。
- 昭和38年(1963年)、第一台場が新しく完成した埋立地(港区品川埠頭・現在の港区港南)に埋没して消滅する。
- 昭和40年(1965年)、第七台場が撤去される。これにより、現存する第三台場と第六台場以外のすべての台場が消滅する。なお、第七台場は最初から未完成のまま海面下に水没した状態で残されていた。
- 昭和40年(1965年)3月1日、台場地区に住居表示が実施され、港区芝品海砲台(第三・第六台場)が町名変更により港南五丁目となる。
- 昭和54年(1979年)、東京港の海底を掘削した際の残土により埋立が進められ、13号埋立地が完成する。そのうち北部は幕府が築いた台場にちなんで、お台場と呼ばれた。完成当時、13号埋立地はいずれの区にも属していなかったが、北部は港区、西部は品川区、南部は江東区にそれぞれ帰属した。
[編集] 脚注
- ^ 第七台場は未完成のまま終わった。