全国高等学校野球選手権北越大会
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北越大会(ほくえつたいかい)とは1959年(41回大会)から1973年(55回記念大会)まで、富山県と新潟県の間で1代表を争った、通算12回に亘って行われた全国高等学校野球選手権大会の北越地区予選会で正式名称は「全国高等学校野球選手権北越大会」。大会名称は北陸三県の内の一つの富山と旧越後国の新潟を合成した意味にとられる。
[編集] 概要・歴史
1958年の第40回記念大会をもって編成相手の長野県が一県一代表参加となったため信越大会は消滅。新潟県は北陸大会から独立した富山県と新たに複数県にまたがる大会を編成する事となった。これが北越大会である。この大会は1973年の第55回を最後に(※ 正式には1972年の第54回)新潟県が一県一代表参加し消滅するまで続いた。(※ 富山県は北陸大会に戻る。)
最終成績は富山県勢の8勝4敗。新潟県勢は以前の長野県との信越大会時代から、全くといっていいくらい自力出場に至らぬ低レベルに泣かされていたがこの北越大会時代でも1964年の第46回(本大会進めず)から(※ 1974年の第56回から新潟県は正式に一県一代表参加となる。)1975年の第57回出場の新潟商までの12年間に亘って、本大会未勝利と正に弱小県を象徴していた。(81年・新発田農が2勝で3回戦進出するまで、戦後以降の新潟県勢の白星は僅か3勝に留まっていた。)
北越代表の最高成績は1967年(第49回)富山商、1969年(第51回)富山北部の準々決勝進出。これでわかる通りこの間は富山県のほうがレベルが高かった。
[編集] 編成の歴史
- 1959年 - (第41回) 信越大会の編成県新潟県と北陸大会の編成県富山県がそれぞれ分離独立し再編成。この年から「全国高等学校野球選手権北越大会」が開催される。
- 1972年 - (第54回) この大会が事実上最後に行われた大会となる。
- 1974年 - (第56回) 新潟県が一県一代表参加となったため消滅。富山県は北陸大会に復帰した。
[編集] 歴代代表校
- 1959年(第41回) - 魚津高等学校(富山県 2年連続2回目)1回戦敗退
- 1960年(第42回) - 高岡商業高等学校(富山県 13年ぶり4回目)1回戦敗退
- 1961年(第43回) - 新発田農業高等学校(新潟県 初出場)2回戦敗退~県勢、戦後初勝利(3‐2戸畑)~
- 1962年(第44回) - 高岡商業高等学校(富山県 2年ぶり5回目)2回戦敗退
- 1963年(第45回) - 一県一代表の記念大会のため実施せず。優勝旗は高岡商業高等学校が預かる。新潟県代表は新潟商業高等学校、富山県代表は富山商業高等学校
- 1964年(第46回) - 富山商業高等学校(富山県 2年連続3回目)1回戦敗退
- 1965年(第47回) - 氷見高等学校(富山県 初出場)1回戦敗退
- 1966年(第48回) - 小千谷高等学校(新潟県 初出場)1回戦敗退
- 1967年(第49回) - 富山商業高等学校(富山県 3年ぶり4回目)準々決勝敗退
- 1968年(第50回) - 一県一代表の記念大会のため実施せず。優勝旗は富山商業高等学校が預かる。新潟県代表は新潟商業高等学校、富山県代表は高岡商業高等学校
- 1969年(第51回) - 富山北部高等学校(富山県 初出場)準々決勝敗退
- 1970年(第52回) - 長岡商業高等学校(新潟県 初出場)1回戦敗退
- 1971年(第53回) - 高岡商業高等学校(富山県 3年ぶり7回目)2回戦敗退
- 1972年(第54回) - 糸魚川商工高等学校(新潟県 初出場)1回戦敗退 (※ この大会が事実上の最終大会)
- 1973年(第55回) - 一県一代表の記念大会のため実施せず。翌年正式消滅のためこの年の新潟県代表糸魚川商工高等学校が永久保持扱いに。富山県代表は富山商業高等学校