丁奉
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丁奉(ていほう、?-271年)は、中国の三国時代に呉に仕えた武将。字は承淵。弟に丁封がいる。
[編集] 生涯
揚州安豊の出身。孫権の時代から呉に仕えた。若い頃から勇将で名を馳せ、いくつもの武功を挙げたという。孫権時代に活躍した甘寧や陸遜らなどとは一世代若い人物であったため、彼らが存命中はその指揮下に入って戦った。
やがて陸遜らが亡くなると丁奉の存在は呉において重きに置かれることとなり、孫権の後を継いだ孫亮の時代には、冠軍将軍・都亭侯に封じられる。
252年、孫権が死んだ隙を付いて攻め込んできた司馬昭が統括する胡遵・諸葛誕ら魏軍を、諸葛恪らとともに大いに破るという功績を立て、滅寇将軍に封じられた。この戦いで丁奉はわずか3000人の兵を率いて自ら船に乗って敵陣に向かい、雪が降っていて、酒宴を開くなど油断していた魏軍に奇襲をかけて、敵の前衛の陣地を散々に撃破した。この勝利が呉軍の大勝利につながった。
孫休が呉の第3代皇帝として即位すると、専横の振る舞いが甚だしかった孫綝(綝は糸偏に林)を打倒するクーデターにて張布と共に大いに活躍し、その功績によって大将軍にまで任命された。そして孫皓が第4代皇帝として即位したときは、右大司馬にまで封じられた。丁奉は、孫権時代からの宿老であったことと武勇が長けたこと、そして呉も末期に入ると丁奉ほど優れた武将が現れなかったということもあって、大いに位を極めることとなったのである。
271年に死去した。
[編集] 三国志演義では
三国志演義では、赤壁の戦いのときから登場し、周瑜により徐盛と共に諸葛亮を殺害するように命じられるなど、一世代上の人物が存命中は損な役回りが目立つ。ただし、丁奉の生年は190年頃とされているため、孫権に早くから仕えていたとしても、赤壁の戦いですでに武将だったのかどうかには疑問がある。
224年に魏が侵攻してきたときには、徐盛の副将として張遼を射殺するという武功を挙げている。三国時代末期の263年に魏が蜀に侵攻した際には、蜀の援軍に赴くなど、老いてからも活躍が目立っている。
[編集] 人物
- 若い頃から武勇に優れ、孫権時代から立てた数々の武勲により、呉の末期においては宿老として重きを成した。ところが丁奉は官位が昇進するにつれて傲慢な態度が目立つようになり、ために死後の272年には孫皓に対して讒言する者があって、丁奉の遺族は左遷されてしまっている。
- 丁奉の死からわずか9年後に呉は滅亡しているが、それは彼の死を始まりとして陸抗などの名将が次々と死去していったことが遠因として挙げられる。
- つぶての名手である。 特に民間伝説では諸葛亮が丁奉らの元から逃げる際、腰に提げていた袋の中から鉄のつぶてをとりだして、諸葛亮の船の帆柱に照準を合わせて腕をふりあげると、空気を引き裂くような音がして、黒い塊が帆柱の先めがけてとんでいき、帆を引っ張る滑車に命中し、諸葛亮の船の帆が落ちて諸葛亮の部屋の上に覆いかぶさった。趙雲はあわてて槍先でその帆をどけて諸葛亮を救い出し、船を捨てて岸にあがると東南の方向に逃げていった、という話がある。いまでも廟に祭る丁奉の像にはふたつの鉄のつぶてが握られている。